新海誠ワールドを確立させた『すずめの戸締まり』 記憶の集積と向き合う映画鑑賞の醍醐味

 彼岸と此岸を隔てるのは、時に川であり門であり、はたまた扉でもある。生と死を描写する物語、あるいはそうした異界へと彷徨うような物語となれば、常にこうした境界線になるものがどこかに存在する。日本で最もポピュラーなところでは『千と千尋の神隠し』のトンネルがそれである。とりわけファンタジー要素の強い作品であれば、そこに死のにおいを感じさせないよう徹底されることが多いが、新海誠の新作である『すずめの戸締まり』においては生きること/死ぬことの並列関係をあらかじめ提示しながら物語を運んでいく。

 これは極めてシンプルなロードムービーである。九州南部の港町(宮崎県のあたり)からフェリーで愛媛県に辿り着き、明石海峡大橋を渡って神戸に入り、新幹線で東京へと向かい、自動車で東北道をぶっ飛ばして東日本大震災の被災地である東北へと向かう。あの時の揺れは東北の三陸沖を震源にして、東京はもちろん、関西や四国、ひいては九州にまで瞬く間に伝播した。その揺れの道のりを、幼き日に被災した少女が10年以上の時を経て、数日間かけて遡っていくのである。

 この少女の旅路のなかには、当然のようにその土地その土地で出会う人々との交流が描かれ、決して劇的ではないささやかな出会いと別れが繰り返されていく。その一方で、呪いによって椅子にされた青年を取り戻そうと決心し、具体的にはどこかわからない母親が死んだ場所、かつて共に生きた場所へと足を運ぶ。生きている者/これから生き続ける者たちとの物語はおだやかに、死する者/すでに亡くなった者たちとの物語は限りなく劇的に。このコントラストをひとつの映画のなかで交錯させることで、単に生きることの先に死が待っているという順列の構造ではないものだと示してくれる。

 それは劇中で何度か少女が口にする「死ぬことは怖くない」という言葉、あるいは終盤へ向かうシーンで椅子にされた青年の祖父に対して言い放つ「生きるか死ぬかを決めるのは“運”」という言葉でもあらわされる。人はいつ死を迎えるかなどわかりはしない。一言で“運”と言ってしまえば途端に他人任せの言葉にも聞こえてしまうが、そもそも“運”とは人知人力の及ばない、抗うことすらできない強靭なものである。そんな“運”へと果敢に立ち向かう少女を導くのが、いかにも幸運を招きそうな見た目をしながら小憎たらしい白いネコという点で、物語がどちらに転じるのか不明瞭なスリルが生み出されたことは確かである。

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