『THE FIRST SLAM DUNK』は3DCGアニメのメルクマールに 恐るべき“心理的な時間感覚”

 映画『THE FIRST SLAM DUNK』のオープニングシークエンスは、同作のコンセプトをわかりやすく表している。

 サラサラと鉛筆の線で白い画面に宮城リョータが描かれる。その絵柄は原作漫画のそれだ。その絵がそのまま歩き出すのに続いて、残りの湘北メンバーが描かれ同じように歩き出す。そして、色がつくと走り出し、試合が始まる。

 つまりこの映画は、漫画の絵をそのまま動かすのだとオープニングで宣言しているのだ。

※本稿は映画のネタバレを含みます

映画『THE FIRST SLAM DUNK』予告【2022.12.3 公開】

 試合がひとたび始まれば、これが漫画のキャラクターだったことを忘れてしまい、まるで本物のバスケットボールの試合を観戦しているかのような感覚に包まれる。無名の湘北高校が絶対王者、山王工業高校を相手にジャイアントキリングをした歴史的瞬間に立ち会ったかのような感動を味あわせてくれるのだ。

 そして、ラストカットで再び漫画の静止画に戻った時、「そうだ、これは元々漫画だったんだ」とようやく思い出す。それぐらい、鑑賞中は手に汗握る臨場感に溢れている作品だった。

 この異様なほどの臨場感の秘密はなんだろう。それは、漫画における時間の流れ、本物の試合における時間の流れ、そして映像における時間の流れの違いを理解した上で、非常に鋭敏な感性で演出されているからではないだろうか。

映画とは時間の彫刻

 映画は、1秒間という時間を「1秒間」のまま見せることができる媒体だ。映画の基盤である静止画の写真は現実の瞬間を切り取るが、映画はそれを時間の中において行える。1秒の現実を、1秒間カメラを回すことで切り取り、観客に1秒間の出来事として提示できるのが映画である。それゆえ、リアリズムこそが映画の美学だと考え、カットを割らないワンシーン・ワンショットの映画を高く評価した批評家がかつていた。

 一方で、映画というものは「時間の彫刻」だと考えた映画監督もいた。彫刻家は、石の塊から余分な部分を削り取ることで芸術を生み出す。映画は現実の膨大な「時間の塊」から不要なものをそぎ落として一つの映画作品を構成していくのだと。(※1)

 これは、ソ連の巨匠アンドレイ・タルコフスキーの言葉を要約したものだが、平たく言うと編集によるカットをつなぐモンタージュによって、作家独特の時間間隔を生み出すということだ。映画は、編集によって時間を圧縮したり伸ばしたりすることができる。そうして、約2時間の映画で人の一生を体験させるかのような時間感覚を観客に与えることができるわけだ。

 両者の主張は、ともに正しいと言える。1秒間を1秒間として切り取れる映画にはリアルな時間が流れているが、それだけでは2時間の映画で2時間の時間しか体感させられない。モンタージュやシーン構成によって圧縮された時間感覚も同時に存在しているものだ。

 映画『THE FIRST SLAM DUNK』には、まさにその2つの時間間隔が同居している。バスケットの一流プレイヤーによるモーションキャプチャを基礎として生み出された試合のシーンは、まさに本物のバスケットボールの試合の時間感覚に溢れている。同時に宮城リョータという一人の青年の、少年時代からの人生の積み重ねがこの2時間に凝縮されている。

本と映像の時間間隔の違い

映画『THE FIRST SLAM DUNK』CM15秒 試合開始まであと7日

 漫画作品を映像化する時にしばしば困難を伴うのが、本と映像の時間感覚の違いである。漫画は本であり、本とは読者が読むスピードを個々人がコントロールするもので、映画のように1秒を1秒のまま提示できるものではない。読書スピードが物語の中の現実と異なっていても成立するのが漫画の長所であり、物語世界の時間の流れが現実とは異なるものであってもよい。時には一瞬の出来事を数ページに渡り描写することもある。

 原作者、井上雄彦氏はいかにして漫画世界の時間を作っていたのだろうか。本映画には原作漫画にあったギャグシーンなどは極力排除され、モノローグや心の声なども大きく削られている。これらを完全に映像に取り込むと、本物のバスケット試合の時間間隔を間延びさせてしまうからだろう。その意味では、原作はリアルな時間とは異なるものだったと言える。漫画の1秒は、現実の1秒とは違うのだ。

 一方で井上氏は、リアルなバスケットの試合感覚をとことんイメージして描いていたようだ。本作の松井俊之プロデューサーは以下のように語る。

松井:プロのストリートバスケットプレイヤーにご協力いただき、原作漫画のプレイシーンを実際にモーションキャプチャで収録して再現してみました。驚いたのは、井上先生の漫画で描かれているプレイのスピード感と、実際の時間(秒数)が、ぴったり一致することでした。なぜ? 先生は頭の中のイメージを漫画で描かれているはずなのに、こんなにプレイ尺がぴったり計れるもの? これは衝撃的な事実でした。(※2)

 井上氏が漫画を描いている時にも現実の時間感覚に極めて忠実であろうとしていたことがうかがえる。しかし、漫画の紙面で読者がそれを体感することは困難だった。それは本という媒体の限界である。

 本作の大きな功績は、その井上氏の時間感覚を、映像によって忠実に作り出すことに成功したことだ。まさに、1秒を1秒として提示可能な映像だからこそ実現できたことである。

 同時に宮城リョータの人生時間を、一つの試合とともに圧縮して提示している。アスリートとは、プレイに人生を懸けて生きる人間だと思うが、まさにプレイの一挙手一投足の背後に、人生の積み重ねがあるのだと映像モンタージュを駆使して描いている。

 心理的なリアルを生み出すために、スローモーションなどの映像テクニックも効果的に用いられる。例えば、三井寿のスリーポイントシュートを無音とスローモーションで見せるカットがあるが、彼のシュートフォームと弧を描くボールの軌道の美しさに、「思わず息を吞む」という気持ちにさせられる。

 その他、宮城が山王のゾーンプレスを一人でかいくぐるシーンも非常に美しいスローモーションで、細部までこだわり抜いた抜群の映像美で描いているが、あのようなビッグプレイの一瞬の輝きが脳裏に刻まれることがあることは、スポーツ観戦をする人ならわかるだろう。こうした、「心理的な時間感覚」をいかに映像で表現するかについても、本作は抜群に敏感である。

関連記事