ミニシアターブーム再検討から、宇野維正×森直人がシャンタル・アケルマン再評価を紐解く

フェミニズムの文脈だけではないアケルマン作品の価値

『オルメイヤーの阿房宮』©Chantal Akerman Foundation

宇野:あとさ、2020年に『燃ゆる女の肖像』(2019年)が公開されて注目を集めるようになったセリーヌ・シアマも、アケルマンをフェイバリットに挙げていたじゃない?

森:そうそう。アケルマンはベルギー出身で、さらにニューヨークでジョナス・メカスの洗礼を受けてきたという経緯がありつつも、基本的にはフランス映画圏の人と言っていいと思うんですけど、最近のフランスって『TITANE チタン』(2021年)のジュリア・デュクルノーとか、セリーヌ・シアマと一緒にジャック・オディアールの『パリ13区』(2021年)の脚本に参加していた『ファイブ・デビルズ』(2022年)のレア・ミシウスとか、いま30代から40代の、1980年代生まれを中心とする女性作家たちの勢いが明らかに「新しい波」を起こしている。

――現在公開中の『あのこと』(2021年)のオードレイ・ディヴァンも、その中に入るかもしれないです。

森:まさに。『あのこと』は、アケルマンが『ジャンヌ・ディエルマン~』の中で「家事」という、それまで映画という特権的なフレームの中では表象されなかったもの……スクリーンの中では描かれなかったものを可視化したように、「中絶」の風景を可視化した映画であって。観客に主人公の時間ごと一体化させて体感させるようなアプローチとか、やっていることが近いと言えば近いですよね。だから、先ほど挙げたような尖鋭的な若手の気鋭監督が注目されるようになって、彼女たちのルーツや共通の精神にあるものが、根っ子ごと上がってきたみたいな感じがあるのかもしれない。

――確かに。

森:あと、『ジャンヌ・ディエルマン~』に主演したデルフィーヌ・セイリグって、アラン・レネの『去年マリエンバートで』(1961年)から本格的なキャリアをスタートさせたフランスの役者ですけど、彼女は『ジャンヌ・ディエルマン~』と同じ年に、作家のマルグリット・デュラスが撮った『インディア・ソング』(1975年)にも主演しているんですよね。今となっては、ちょっとした伝説みたいになっているこの2本の作品の両方に、ある種のアイコンとして主演しているっていう。

――なるほど。そういう繋がりもあったわけですね。

森:そう。だから、そのへんの文脈も、日本ではスッポリ抜けていたと思うんですよね。『インディア・ソング』は日本でも1985年に劇場公開されて、その後も視聴できる機会は普通に多かったけど、それを『ジャンヌ・ディエルマン~』と合わせて語るような文脈は、当時ほとんどなかったと思うので。

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――ただ、今回のラインナップ――『私、あなた、彼、彼女』(1974年)、『アンナの出会い』(1978年)、『囚われの女』(2000年)、『オルメイヤーの阿房宮』(2011年)を見ると、実は80年代、90年代の作品が抜けていて……。

森:アケルマンは結構多作なので、その時期もコンスタントに映画を撮っていて……『ゴールデン・エイティーズ』(1986年)とか『カウチ・イン・ニューヨーク』(1990年)は、リアルタイムから数年遅れくらいで日本でも公開されていたんですよね。ただ、前者はミュージカルコメディだし、後者はジュリエット・ビノシュとウィリアム・ハート主演のラブコメディ。ちょうど日本のミニシアターブームと重なる時期のアケルマンって、いわゆる商業映画をやり始めて、作家性みたいなものが把握しづらくなっていったところがある。だからやっぱり、「#MeToo」以降のフェミニズムという軸が一本できたことで、急にその作家性というかフィルモグラフィーの見通しが良くなったところは、きっとあるんじゃないかな。

宇野:『カウチ・イン・ニューヨーク』が日本公開されたのは当然だよね。ジュリエット・ビノシュとウィリアム・ハートって、当時普通にスター俳優だったから。その2人が出演しているということは、逆に言うとヨーロッパではもうそれだけ評価が確立していた監督だったっていうことだよね。そういう監督を、ずっと日本は見過ごしてきたわけですよ。

『アンナの出会い』©Chantal Akerman Foundation

――これまでの話にあったように、アケルマンというと、どうしてもフェミニズムの文脈で語られることが多いですけど、果たしてそれだけなのでしょうか?

宇野:いや、アケルマンの映画に影響を受けたと公言しているトッド・ヘインズやガス・ヴァン・サント、ミヒャエル・ハネケ……彼らがアケルマンから受け取っているのは、フェミニズム的なところとは、またちょっと違うような気が自分はしていて。画面に映っているものに対して、作り手が解釈を加えないという意味での禁欲性というのかな。それって、実は多分に作為的なものだったりもするんだけど。少なくとも作品の建て付けとしては、観客の前にある種放り出すというか、観客の能動性を喚起させるために、そこに映っているものを監督の目線からは批評しないという。ハネケの『ファニーゲーム』(1997年)とかは、まさにそういう映画だったし、ガス・ヴァン・サントが、アケルマンの名前を出したのって、確か『エレファント』(2003年)の頃だよね。あの映画を撮る上で、いちばん参考にしたのが、アケルマンだったっていう。

森:ああ、なるほど。言われるとよくわかりますよね。

宇野:そこで行われていることのひどさ――いわゆるスクールシューティングに対して、作り手が、いかにエモーショナルにならず、それを淡々と映し出すことができるのかっていう。

――まさに『ジャンヌ・ディエルマン~』のような……。

宇野:そうそう。それって実はすごく危なっかしいことでもあるし、実際ハネケやガス・ヴァン・サントのそういう姿勢は批判対象にもなってきたけど、その源流にいる監督として、アケルマンがいたっていう。そういう禁欲性みたいなものが、アケルマンの映画には、どれもあるじゃないですか。

森:それは、すごくわかります。

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――安易にカットを割らない胆力というか、物事をじっと見つめる胆力がすごいですよね。

森:そうそう。強靱なスローシネマとでもいうか、その時間を観る側が共有することによって、そこに生のリアリティが生起する。しかも非常に硬質なタッチで、『ジャンヌ・ディエルマン~』なんか200分という破格の長尺。比較的ポップな味わいのあるハネケやガス・ヴァン・サントよりも、ずっとハードコアですよね。まさに原液というか。それに、さっきの「家事」の可視化の話じゃないけど、彼女の場合は、そもそも何を被写体に選ぶかっていうところで、もうかなりその思想性は鋭く表出しているわけで。

――確かに。

森:ちなみにアケルマンの代表作とされている『ジャンヌ・ディエルマン~』は、今回の配信ラインナップには残念ながら入ってない。あの映画は確かに「フェミニズム映画」と言って問題ないと思うんですけど、当時25歳のアケルマン自身からは遠い主人公を映し出しているわけで、どこかルポルタージュ的にも思えるんですよね。哲学者シモーヌ・ヴェイユの延長にあるような「労働論」っていう位相にも見える。だからむしろ、アケルマン自身が主演も兼ねている『私、あなた、彼、彼女』や、あるいは映画監督が主人公の『アンナの出会い』のほうが、ダイレクトに彼女自身を作品に投影している「自画像」的な度合いはずっと強いんじゃないかな。

『私、あなた、彼、彼女』©Chantal Akerman Foundation

――なるほど。あとの2作品――『囚われの女』と『オルメイヤーの阿房宮』は、どちらも男性作家による文学作品が、一応原作になっていて……。

森:『囚われの女』は、マルセル・プルーストの『失われたときを求めて』の一篇を、大胆に脚色して映画化したものですが、明らかにヒッチコックの『めまい』が意識されていて。「ヒッチコック流儀でフランスの監督が撮るとこうなる」という典型例のような作風でもあり、極めてヌーヴェルヴァーグ的ですね(笑)。『オルメイヤーの阿房宮』は、コッポラの『地獄の黙示録』(1979年)の原作者として知られるジョセフ・コンラッドの小説が元になっている。この2つはまさに、男性を主人公として描くことによって、同じ主題を反転しながら描いているようなところがありますよね。

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