『メイドインアビス』が引き継ぐ手塚治虫のエッセンス なぜ残酷描写が不可欠なのか?

 『メイドインアビス』は残酷な物語だ。

 可愛い絵柄に残酷描写の組み合わせは日本のマンガ・アニメが得意としてきたものの1つでもある。しかし、デフォルメされた架空の存在が痛めつけられることに残酷さや悲しさを感じたりするのは、よく考えてみれば奇妙な事態だ。

 しかし、その奇妙さは手塚治虫以来の日本のマンガ・アニメの伝統でもある。記号的な身体を「死にゆく身体」として描ける伝統を、『メイドインアビス』は今に引き継ぐ物語であり、それなくして描けない“何か”を持った作品だ。

記号的存在の「死にゆく身体」とは

 マンガ・アニメにおける「死にゆく身体」とは何か。批評家の大塚英志は、手塚治虫以前のマンガのキャラクターは、たとえ車に轢かれても紙のようにペラペラになるだけだし、銃で撃たれても頭の周りに星のマークが出るだけ、焼夷弾が爆発しても顔に煤がつくだけで次のコマにはけろっとしているとし、「内面に於いても身体に於いても本来、傷つかない存在」(『アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』角川文庫、P93)だと言う。

 しかし大塚は、手塚治虫がデビュー以前に描いた習作『勝利の日まで』で、デフォルメされた記号的なキャラクターが傷つき死にゆくさまを描いたと語る。戦闘機の機銃掃射に撃たれたキャラクターが「アッ」と血を流す。記号の組み合わせで内面を持たないはずのマンガのキャラクターにも血の通う生身の肉体があり、同時に内面をも描き得ることを示したこのコマは、大塚は「戦後まんが」発生の瞬間だと考察する。

 そして、それは日本でマンガが特異な発展をした理由であると大塚は言う。

戦後まんがが手塚以降、諸外国のまんがと比して特殊な発展をとげるのは、手塚がまんがに、表現すべきものとしてのリアリズム的な「心」と「身体」を持ち込んだからである。(『アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』角川文庫、P144)

(大塚の分析はマンガを中心にしているが、同じく絵による記号的なキャラクターを用いるアニメーションにも同じことが言えるだろう。大塚は、手塚が影響を受けたディズニーのキャラクターも「死なない身体」と規定している)

 『メイドインアビス』は、そんなデフォルメされた記号的なキャラクターたちが「死にゆく身体」を持つからこそ成立する作品だ。

 例えば、アニメ第1期、主人公の少女リコが深界四層で致命傷を負うシーンだ。腕に猛毒をくらい膨れ上がった腕を、リコはレグに切り落とすように指示する。ナナチの処置のおかげで腕を切断せずに一命を取りとめるが、リコの腕は完治せず、後遺症と大きな傷跡が残ることになる。完全には治らない腕は、虚構の記号的身体にもかかわらず、生身と同じ血の通う存在であることを示唆する。

 手塚治虫が「死にゆく身体」を描かざるを得なかったのは、戦争という圧倒的な現実を避けることができなかったからだと大塚は考えているが、この作品において「死にゆく身体」が描かれるのは、冒険は本来、死ぬ危険のある過酷なものであるという現実を描くためだ。道中、命を落とした探窟家の死体が転がっていることも度々あるが、冒険のスリルとは死と隣り合わせである実感を本作は重要視している。そのため、キャラクターの芝居もリアルであることが求められる。例えば、リコの腕を切り落とそうとする一連のシークエンスは、腕の関節を外すなどの現実的な所作に則っているなど、絵空事のキャラクターに絵空事ではない芝居をさせようという狙いが随所に見られる。

 本作では「死にゆく身体」と「死なない身体」が物語の中で対比的に置かれる。毒の処置で苦しみ続けるリコが「死にゆく身体」を象徴するなら、「死なない身体」を象徴するのはナナチの親友ミーティだ。アビスの呪いによって異形の姿となり、死ねない肉体になってしまったミーティは、本作の最も残酷なものとして描かれる。それを少年型ロボットのレグが、「奈落のルールを書き換える」力である火葬砲で死を与えるのだが、何よりも死を迎えられないことを否定する姿勢が本作にはある。

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