坂元裕二脚本に翻弄され続けた『初恋の悪魔』 一貫して描かれた“悲劇”の生まれ方

「君は知ってるか? この世には知らない方がよかったこともある」

 とは、ドラマ『初恋の悪魔』(日本テレビ系)初回において、鹿浜鈴之介(林遣都)が、初対面である馬淵悠日(仲野太賀)に向かって言った言葉だ。その言葉は第8話において再び繰り返された。そして最終回直前の第9話終盤、2人はようやく“バディ”となって、その頃を思い出しながら歩いている。

 友情や恋といった「知らない方がいい」と以前の鈴之介なら思っていたことを、今の彼は知っていて、それによって彼はかつての彼とだいぶ違うことを言うようになった。森園(安田顕)に対し「生まれついて猟奇的な人間なんていません。仮にいたとしても、僕たちはその理由を考えることを放棄してはいけない」と返したことからわかるように。しかし、1人の女性・摘木星砂(松岡茉優)の中の2つの人格にそれぞれ恋をするというややこしいことが起こらなければ、2人はもっと早いタイミングでこうやって並んで歩いていたのだろうか。とはいえ、アルフレッド・ヒッチコック『裏窓』を髣髴とさせる展開から始まり、男同士の友情が一人の女性の存在によって危うくなるというエルンスト・ルビッチ『生活の設計』のような往年の数々の優れた映画を思わせる展開に、胸を躍らせずにはいられない。

 とはいえ、「マーヤーのヴェール」に覆われて本質も何もわからない状態とは、最終回を前にしてさらに深まる謎を前に、何もわからない、視聴者の今この時を言うのではないだろうか。坂元裕二による、まさに「先の読めない物語」に翻弄されている。なぜ、彼らは夜中にやってきて雪松(伊藤英明)の息子・弓弦(菅生新樹)を鋏のある部屋に放置したまま、彼の証言の録音を聞き、さらには明らかに翌日以降であると思われる時間帯に「犯人」と思っている雪松を追って2人で出ていったのか。

 星砂が弓弦に語り掛けた「ある人の話」は第6話における悠日の言葉ではあるが、その会話の途中に星砂の人格は入れ替わっており、全ての話は聞けなかったはずではなかったか。さらには気がかりでならない、エンディング後に映し出された小鳥(柄本佑)の行動は何を意味するのか。星砂が自身のことを「胡蝶の夢」(夢と現実の境目が曖昧で区別できないこと)に例えたことがあったが、まさに本作はそんな具合で、できることならこのまま、ずっと醒めてほしくない夢のようでもある。 

 本作は『初恋の悪魔』というタイトルであることから、2種類の「初恋」を巡って物語が展開されている。1つは、「私のお父さん」を巡る、「初恋」に似た2つの“父子”の果て。第8話において、喫茶店で流れるプッチーニ「私のお父さん」をバックに朝陽(毎熊克哉)が語ったことを、みぞれ(神尾佑)が悠日に話していた。刑事にとっての上司は「親」であり、雪松は、朝陽にとって「刑事の生き方」を教え導いてくれた存在だったという意味で「初恋の人」に似ていると彼は語っていたと言うのだった。

 しかし、その「父親」のようで「初恋の人」のような存在は、彼を誤った方向に導き、そのことに気づいた彼は、暗い森の中に立ち尽くす。一方、第9話において再び「私のお父さん」が物語の中で流れるのは、本物の「父子」の場面で、弓弦によって語られる、「息子・弓弦の目の前で、次々に子供たちを殺していく父親の姿」であり、血濡れた手で息子の手に四つ葉のクローバーを握らせる姿は、狂気的である。だがそれと同時に、「人を好きになるということは傷を作ることだ」「ただマイナスとマイナスを掛け合わせた時にプラスになるように、傷を分け合えた時に相殺されるだけ」という鈴之介の言葉を思い起こさずにはいられないほど切実に、壮大な音楽に合わせて、2つの“父子”の破局と結実が描かれるのである。

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