台湾映画『呪詛』が生み出した恐怖とは? “ルール違反”といえるホラー映画の“タブー破り”

 台湾製作のホラー映画『呪詛』が話題だ。あまりに怖いとの噂は口コミで広がり続け、Netflixの日本における「今日の映画トップ10」でも、数日に渡ってトップ1を獲得するなど、大きな注目を集めている。

 筆者もまた、そのバリエーション豊かな試みや、不気味さの醸成の上手さに感心したり楽しんだりしながらも、やはり最後には恐怖に包まれ、ほとんど涙目になりながら鑑賞を終えることとなった一人である。

 そんな本作『呪詛』が生み出した恐怖とは、いったい何だったのか。ここでは、その核心部分をある程度ネタバレしながら説明していきたい。

 本作の雰囲気が、ホラー作品のなかでも際立って異様なのは、主人公の女性が“YouTuber”のように、観客に向かって語りかけてくる、その冒頭部分からも十分に予想できる。彼女はなぜかわれわれに“意志の力”の凄さを強調し、「簡単な実験をしよう」と提案してくる。

 ここで突然映し出されるのが、稼働している観覧車を表現した、イラストによるアニメーションだ。それを見せながら女性は、「観覧車が右回りになるように念じて」、「次は左回り」と指示をしてくる。実際に言う通り念じると、たしかに自分の願う方向に観覧車を自由自在に回せているように見えるのである(方向転換しようとする際にまばたきをするとさらに効果的だ)。

 そして女性は、“意志の力”には、世界を変えることさえできると説明する。ここで嫌な予感がするのは、この“実験”と称する“観客参加型”の試みは、悪質な宗教に勧誘されている状況と近いように感じられるからである。カルト宗教が信者を獲得する常套手段として、奇術めいた“奇跡”を体験させたり、真実に嘘を混ぜた詭弁で、真理めいたことを語るというものがある。本作の冒頭部からは、それと同様の欺瞞があることが直感的に伝わってくるのだ。

 たしかに冒頭のアニメーションは、興味深い体験を観客に与えてくれる。しかし、“その力で世界を変えられる”と主張するのは、論理が飛躍し過ぎなのではないか。この“実験”が示すものは、ただ“ある種のコマ数の少ないアニメーションには、それを見る者の意志で、動きの向きをコントロールできているように感じられるものがある”ということだけで、世界の真理がここに表れているというのは眉唾な主張だと考えなければならない。

 とはいえ、これはあくまでホラー映画だ。自分からすすんで鑑賞しておいて、そこで表現される荒唐無稽な論理を楽しもうとしないのは野暮だというのもたしかだ。お化け屋敷に入っておいて、「お化けなど存在しない」という態度をとり続けるのも、おとな気ないのではないか。本作を十分楽しみたいのであれば、この女性の思惑に乗って、能動的に作品の意図に順応していく方がいいというのも、一理あるだろう。

 しかし、そう考えてみると、そもそもフィクションを楽しむということ自体が、作り手と受け手が共犯的に生み出す、一種のカルトのような関係性によって成立するものなのではないかという気もしてくる。ホラー映画や怪談など、超自然的な要素と日常的な描写が絡んだ題材であれば、なおさらなのではないか。そして本作の作り手は、おそらくそのメカニズムを知っているからこそ、それを意識した試みを用意できているのではないだろうか。

 本作のメインとなるのは、この冒頭でわれわれに語りかけていた女性リー・ルオナン(ツァイ・ガンユエン)を主人公とした、二つの物語だ。一つは、6年前に彼女が訪れた、奇妙な風習の残る小さな村で呪いを受けるというもの。もう一つは、自分と娘にかけられた呪いによって次々に起こる怪異に悩まされるというもの。これらが主観的な映像によって、「ファウンド・フッテージ(発見されたドキュメンタリー映像を紹介するという設定のフィクション作品)」に近いスタイルで、交互に表現されてゆく。

 ホラー映画でとくに問われるのは、作り手のセンスである。その意味で本作は、観客を怖がらせる不気味な雰囲気を作り出すのも非常に達者だといえる。例えば、ルオナンが精神科医に対し、“入ってはいけない地下道”が存在することや、「あの“神様”のことを知れば知るほど不幸になる」と語りかける場面は、まさに神がかった気持ち悪さがあると感じられる。この、土着信仰の神を不気味に表現する点では、白石晃士監督の『ノロイ』(2005年)を想起させられるところがある。

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