『鎌倉殿の13人』翻弄された頼朝は大泉洋の真骨頂 三谷幸喜とのコンビだから描けた最期

『鎌倉殿の13人』頼朝は大泉洋の真骨頂

 このドラマは、三谷幸喜自身が映画『ゴッドファーザー』(1972年)のようなものをやりたかったのだと各所で語っているが、筆者の場合は、それを三谷幸喜が意識していようといまいと、『ゴッドファーザー』の影響を受けてるであろう『インファナル・アフェア』(2002年)や『新しき世界』(2013年)を思い浮かべてしまう。

 2つの作品は、警察とヤクザという相反する世界にいるふたりが、潜入捜査をする中で、もう元には引き返せないところにまでいってしまったという話である。決して、警察組織の中で生きたかったわけではない人物や、決してヤクザの組織の中で生きたかったわけではない人物が、そこで自分の秘密を誰にも打ち明けることなく、しぶとく生きていくしかなくなる物語。彼らも、頼朝と同じく、一度そのループの中に入ってしまった以上、「ああするしかほかなかった」人たちなのである。

 しかし、三谷幸喜の脚本、そして大泉洋が演じる場合は、「ああするしかほかなかった」というものを背負った人の悲哀だけでなく、死の直前まで、ひょうひょうとした笑いのシーンが繰り広げられるのが最大の特徴である。もしも、このふたりのコンビでなかったら、笑いと悲しみの間を自在に行ったり来たりはできなかったのではないか。

 第25回では、いよいよ頼朝が死を感じながら毎日を過ごす。頼朝が乳母であった比企尼(草笛光子)に会うも、年老いた比企尼は目をあけたまま頼朝の問いかけに一言も答えず、それを自分を許さない態度と捉えてしまう。しかし、頼朝の去った後、実は比企尼は、目を開けたまま眠っていたとわかるシーンにも、頼朝が餅をつまらせた後に「死ぬかと思ったー」と漏らすエピソードにも、悲壮感が一ミリもなくてくすっと笑わされた。死を感じ取りながら生きる頼朝と、なんでもないことに笑える日常の落差が、頼朝に迫る死を余計に悲しくさせるのであった。

 こうしたシーンからは、歴史というのは、誰かの意志だけで動いているのではなく、運命に翻弄されながら、知らず知らずのうちに選択をしていった結果、その方向性が決まっていくものであり、すべてをコントロールするものなどいないということがこの物語から感じられる。頼朝も、別に天下を獲りたいとか、人の上に立ちたいという気持ちから今の地位についたのではない。一度、その道を歩き始めたら、降りることはできなかっただけだろう。

 最後に頼朝は、「人の命は定められたもの。抗ってどうする。甘んじて受け入れようではないか。受け入れた上で、好きに生きる」と、それを受け止める。歴史上の人物も、たくさんの選択を受け入れ、翻弄された、ただの人だったのだということが貫かれていると感じた。そしてそれは、三浦義村の言った「自分の生きたいように生きる」とか「己の幸せのために生きる」ということとは真逆であり、大姫にしても頼朝にしても、死の間際にしか実感できないことであったのだろう。

 『鎌倉殿の13人』が、歴代の大河ドラマの中でも特に人間臭く、現代劇にも置き換えられるような人間同士のリアリティが感じられるのは、登場人物の誰も、意思を持って何かを成し遂げた偉人やヒーローではないと描かれたことが大きいのかもしれない。そして、大泉洋には、そんな役がぴったりくるのであった。

■放送情報
『鎌倉殿の13人』
NHK総合にて、毎週日曜20:00~放送
BSプレミアム、BS4Kにて、毎週日曜18:00~放送
主演:小栗旬
脚本:三谷幸喜
制作統括:清水拓哉、尾崎裕和
演出:吉田照幸、末永創、保坂慶太、安藤大佑
プロデューサー:長谷知記、大越大士、吉岡和彦、川口俊介
写真提供=NHK

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