レオス・カラックスが見出した、観客の感情との確かな接点 『アネット』で新たな境地へ

 それだけでなく、ヘンリーはアンとの関係に倦怠を感じ、彼女がオペラで死にゆく役を演じる姿を見て、役柄同様に死にいたらしめるという、脅迫めいた幻想に囚われることになる。彼は、このような奇妙な心理状態を「depth(深淵)」と呼ぶ。そしてそんな異常な妄想をスタンダップコメディとして、プライベートな性生活の模様とともにステージ上でぶちまけてしまうのである。

「ひねくれた精神が、私を最終的に破滅へと導いたのだ。自分を苦しめたい、自分の本性に暴力を振るいたい、間違ったことのために間違ったことをしたいという不可解な憧れが私を駆り立て、ついには、この無抵抗な存在を傷つけるに至ったのだ」(『黒猫』エドガー・アラン・ポー)

 作家エドガー・アラン・ポーは、ある男が小動物や自分の妻を殺害する短編『黒猫』で、強迫症的な殺人者の感情を、このように描写している。そして、「“ひねくれた心”が人間の原初的衝動の一つであって、人間の性質と切り離すことのできぬ根源的な力、あるいは感情の一つだと確信している」と、殺人者に語らせている。責任逃れのような身勝手な言い分だが、暴力的な衝動が自分の内側の奥深くからやってくるという認識は、本作のヘンリーと通じるところがあるといえよう。それにしても、なぜヘンリーは、そのような深淵に近づいてしまったのだろうか。

 それは、彼のコメディアンとしての表現が行き詰まっていたからだと考えられる。彼はこれまで、自分の日頃思ったことをネタにして、歯に絹を着せず本音を語ることで評価されてきたはずだ。しかし、ヘンリーはいまや社会的成功者であり、人を笑わせる職人芸、もしくは芸術において名を遂げた人物なのである。彼自身が「寂しい観客を笑わせる自信がない」とぼやくように、一般的な観客との接点を失ってしまっていたのだ。

 おそらくヘンリー自身は、これまでと同様に、自分の思うことを直裁的に舞台で叫び、演じているだけなのである。そして、ブーイングを浴びることになるパフォーマンスは、ややもすると彼のこれまでの舞台のなかで、最も真に迫る会心の出来だった可能性すらある。しかし、客席の人々には全く共感されない。観客の心が離れていく過程と、その反応に苛立ち焦燥していくヘンリーの心理状態は、この物語がカラックスから提出されたものではないのにもかかわらず、どうしてもカラックスの境遇と重ね合わせてしまうところがある。

 この物語は、まさに古典的といえるような因果応報の結末を迎えることとなる。しかし、それだけではない。ヘンリーとアンの娘アネットが、自分の意志を吐露する、現代的な要素を持つ歌唱シーンが存在するのである。

 劇中でアネットの姿は、操演される“あやつり人形”として表現されている。それは、ヘンリーが彼女を好き勝手に操り、一個の人格として認めることができないという状況を表現したものだろう。しかし、最終幕でついにアネットは“人形であること”をやめて、自身の感情をヘンリーに激しくぶつけるのである。興味深いのは、彼女の怒りが母親のアンに対しても向けられている点である。

 精神的に問題を抱えていたのは、ヘンリーだけではなかった。アンもまた、ヘンリーの横暴への反発心はもちろん、女王として扱われていた過去と結婚後の状況を引き比べて、その選択を後悔していたのだ。彼女は感情をそのまま表に出すタイプではないが、まだ幼児のアネットと遊びながら、凄まじいスピードで振り回す危険な行為に及ぶなど、その内在する暴力性はヘンリーと似通ってしまうところがある。さらに、ヘンリー同様に、娘を自分の目的のための道具にしてしまうところを見ると、最終的にアネットが父母へ怒りをあらわにしたのは当然だといえよう。

 だが一方で、一人の子どもが自分の意志で行動し、自身の心情を的確に表現できるまでに成長を遂げたことについては、喜ばしいことだといえないだろうか。ヘンリーは、娘が自分の手から離れ、制御ができない存在になるのを、ただ胸の内で認めるしかない。しかし、それを受け入れることが、終始自分のことだけしか考えてこなかった、ヘンリーの親としての成長であり、ささやかな贖罪だったのではないか。

 それはまた、カラックス自身の実感とも重なっていたのではないか。前作『ホーリー・モーターズ』と同じく、『アネット』のオープニングでは、監督であるカラックス自身が実の娘とともに登場する。これが自分という父親と、その娘の物語であり、また逝去した妻の婉曲した物語でもあるというように。

 “ボーイ・ミーツ・ガール”の主題に描かれた若者の感情や、その純粋さが現実の社会と摩擦を起こすこと、そして引き裂かれるような苦痛と爆発的なエネルギーが存在する初期の3部作は、たしかにいまもって普遍的な価値のあるものだ。しかし、カラックスは確実に人生を前進させ、いまは娘を愛し、彼女自身の人生の歩みを認めている。小津安二郎の映画がそうであるように、そんな家族の感情もまた、多くの人に共通する普遍的な感情である。カラックスは、そこに自身の生きる上での実感と、観客の感情との確かな接点を見出したのではないだろうか。

 レオス・カラックス監督は、いまの自分を正直に作品に反映させることで、映画作家として「映画」を裏切らずにいる。むしろ、だからこそ歩みを止めることが、ときには必要になるのだろう。いまの彼にはたしかに、自身の分身であった若い主人公“アレックス(ドニ・ラヴァン)”が、夜の道を一直線に疾走した勢いはないのかもしれない。しかし彼はいまもって、先の見えない夜の道を、迷いながらも前進し続けているのである。

■公開情報
『アネット』
ユーロスペースほかにて公開中
監督:レオス・カラックス
原案・音楽:スパークス
歌詞:ロン・メイル、ラッセル・メイル&LC
出演:アダム・ドライバー、マリオン・コティヤールほか
配給:ユーロスペース
上映時間:140分
(c)2020 CG Cinema International/Theo Films/ Tribus P Films International/ARTE France Cinema/UGC Images/DETAiLFILM / Eurospace/Scope Pictures/Wrong men/Rtbf (Televisions belge) /Piano
公式サイト:annette-film.com

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