『ムチャブリ!』で更新される“社長像” 雛子と浅海の対比で浮き彫りになるもの

 お仕事系ドラマ、特にラブコメ的な作品で社員の主人公と社長の関係を描くもので、社長はいつだって謎多き人物として描かれてきた。常に高級そうな服装を身にまとい、何を考えているかわからなくて、主人公には物語の中盤まで腹の中を明かさない。主人公は「あなたが何を考えているかわからない!」なんて悩んだり、その様子を見た同僚が「俺はいつだってお前を見てきた」と告白したり……と三角関係が発展していくのは“あるある”だ。『ムチャブリ! わたしが社⻑になるなんて』(日本テレビ系)には、そういった従来のドラマ内の“社長像”、そして新たな“社長像”というものが並行して描かれている。

 従来の社長像でいるのは、松田翔太演じる浅海だ。いつも飄々として掴みどころがないものの、そのカリスマ性と決定力で大きな会社を牽引してきた。それと同時に彼は笑っている姿があまり見られず、周囲の人間とは深いコミュニケーションを築かない孤独な存在として描かれている。雛子(高畑充希)も、ここ数話で彼の新たな一面を知る場面が続き、一番近い存在だったはずの秘書時代に何も彼のパーソナルな部分を知ることができなかったことが浮き彫りになった。

 そんな彼を尊敬し、“彼のような社長になる”と奮闘して空回りしてしまったのが、第5話。地方の名産を使ったフェアを企画していたものの、野上フーズとバッティングしてしまったことで雛子が一人暴走し、大牙涼(志尊淳)をはじめとする社員に叱咤された。そこで彼女は自分がなろうとしていた“社長像”というものが間違っていたことに気づく。誰にも頼らずに一人で様々な決断を下せる。それが、彼女が浅海から得たインスピレーションだったものの、本当のところそれは社員にとってはワンマンで傲慢で、「一緒に働きたい」「この人について学びたい」と思わせる社長ではなかったのだ。

 従来、こういったドラマでは「社長」というものは主人公とその人物の隔たりを強調するためによく用いられてきた。身分の違い、明確に引かれた一線。『ロミオとジュリエット』や『ウエスト・サイド・ストーリー』のような古典に影響を受けた、“恋愛の前に立ちはだかる試練”としての装置にすぎないのだ。そのため、その“社長像”というものを細かに描く必要はなく、ただなんとなく「孤高の存在」といったざっくばらんな印象で仕事ドラマの「あるある」として登場してきた。それが、『ムチャブリ!』ではよりその点に焦点をあてて描かれているのだ。それは、 “主人公も”社長になるという展開ゆえのことである。

 だからこそ、本作では「社長」というものが先述の単純な装置としてではなく、主人公と相手のパーソナリティ、人格の違いを表すものとして使われている。そこで従来の輪郭がぼやけた、いわゆる非現実的な社長像の浅海と対比して描かれる雛子が体現する社長像というのは、ある意味現実的なものだ。

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