深作健太×愛原実花、偉大な父親を持つ2人が心の内を語り合う “生き恥”を晒すという信念

 今、「親ガチャ」に悩む子どもたちがいる。「当たりの親ガチャ」を引いた子供ははたして文句なく幸福だろうか。例えば昭和の巨匠・劇作家つかこうへいの一人娘で俳優の愛原実花と映画監督深作欣二の一人息子・深作健太の親ガチャはハズレではないだろう。そもそも当たりとかハズレとかも何をもってそう言うか定かではない。

 世の中は「二世」という良くも悪くもバイアスをかけて彼らを見る。親が生きている間は強烈な親の才能の洗礼を浴び、亡くなってからはその継承を期待される。作家ではなく俳優を選んだ愛原実花、映画ではなく演劇の演出を選んだ深作健太。ストレートに親を引き継がなかったふたりが心の内を語り合う。(木俣冬)

世間的にはこわかった父は家では優しかった

深作健太(以下 深作):みな子さん(愛原の本名)が生まれてからつかこうへいさんの作品――例えば『娘に語る祖国』や『銀ちゃんが、ゆく』などは娘へのラブレターだなと感じます。次世代に語り継ぐ優しさがありますよね。

愛原実花(以下 愛原):『ラブレター』ってすてきな喩えですね。ありがとうございます。ただ私は芸能の世界からは隔てられて育てられまして。劇場に公演を観に行くことはありましたが、稽古場や楽屋に立ち寄るようなことはありませんでした。健太さんは昔からお父様に映画の世界を見せてもらっていましたか?

深作:僕は幸福にも子供の時から撮影所に見学に行くことができました。最初に行った時は5歳。先日亡くなった千葉真一さんをはじめとして春田純一さんや山本亨さんなどJACの俳優さんたちに遊んでもらって楽しくて将来は監督になろうと5歳にして早くも決めたんです。母が俳優でしたから俳優に憧れてもおかしくなかったですが、監督に憧れたわけは、俳優さんが演技している手前に、監督である親父の背中とカメラマンさんの背中があったからです。自ずとスタッフが魅力的に見えました。

愛原:5歳から揺らぐことなく映画監督志望を貫かれた?

深作:揺らがず。一度だけ揺らいだのが、15、6歳の反抗期の時期です。小劇場ブームがあって演劇に興味をもちました。演劇が面白いと思ったきっかけのひとつが、つかさんの『蒲田行進曲』です。それを親父が映画化(1982年)することになって家で脚本を書く時に、カセットテープで公演を録音したものを聞いていたんですよ。柄本明さんがヤス、根岸季衣さんが小夏をやっていました。それを僕も聞いて。子どもの頃から慣れ親しんだ撮影所が舞台だったから心惹かれました。

愛原:我が家も母方の祖父が映画監督なんですよ。父が母と結婚した時、母方の家族と暮らしていたので父は義父の映画監督仲間との交流を通じて『蒲田行進曲』のインスピレーションを得たそうです。父には映画への憧れもあったのかもしれません。

深作:そうだったんですね。

愛原:お父様はご自宅の書斎などで書いていて、その様子を深作さんは見ていた?

深作:はい。傍らにいました。

愛原:それは幸せですね。

深作:世間では怖いイメージがありますが家では優しい人だったんですよ。つかさんは執筆する時はどんな感じでしたか?

愛原:これもまたあまり見たことがありませんでしたね。家では自分の仕事の世界のことはあまり出さずに仕事場と家庭ではスイッチを切り替えていたように思います。

深作:そんなみな子さんがなんでまた演劇――しかも宝塚に入られたんですか?

愛原:宝塚が父の芝居とは真逆の世界だったからでしょうか。数少なく見た父の芝居は、幼い私にとって触れてはいけないおそろしいものだったんです。暴力的なシーン、過激なセリフや性的な表現を、あんなに家では優しいお父さんが作っているなんて……と衝撃を覚えた記憶があります。大人になってから父に「パパの作っている作品は、傷口に塩を塗り込むような作品なんだよ」というようなことを言われたことがありました。その頃は私もようやく父の作るものは人間のコンプレックスや傷や痛みをあえて描くことで観る人の心に刺さるものになっているとその意義を感じることができるようになってはいましたが。

深作:そうだったんですね。

愛原:通っていた高校にあった宝塚クラブの文化祭公演を見たことをきっかけに宝塚を観るようになったら、「なんて安心して観られる優しいお芝居なんだろう」と(笑)。そちらにのめりこむようになったんです。私が宝塚に入りたいと父に相談した時は「役者は男がなるもんだ」みたいなことを言っていて。女性の役者はどんどん男になっていくというようなことも言っていました。おそらく気の強い方々をたくさん見てきたのでしょうね(笑)。演劇に興味があるなら俳優ではなく作る側ではだめなのかとも聞かれたこともあります。

深作:家では優しいお父さんだったんですか?

愛原:優しかったです。声を荒げたところは一度も見たこともないですし、とにかく甘々でした(笑)。「抱っこしてー」とねだるとずーっと抱っこしていてくれました。

深作:うちも優しかったです。40歳過ぎてからの一人息子だからかな。みな子さんも一人娘?

愛原:一人娘です。うちも遅いほうですね。私が生まれた時、父は35歳ぐらいです。

深作:やっぱり年とってからの子供には優しくなるのかなあ(笑)。

愛原:いろいろな二世の方とお話すると親への印象が極端に分かれる気がします(笑)。親子であることに触れてほしくないと言う人もいれば、何かと話題に出てほんとに愛されて育ってきたんだと感じる方がいますね。

破天荒なお父さんに巻き込まれて……

深作:親父の場合、優しいと言ってもその一方で破天荒なんですよね。それこそ映画『蒲田行進曲』のヒロインを演じられていた方と大恋愛に陥ったことがありました。で、そういうとき男親と息子の場合、とっとと紹介しちまうわけですよ。

愛原:そうなんですか!?

深作:あれはずるい作戦ですよねえ。そうするとしょうがないなあという気分になるんですよ。

愛原:それっておいくつぐらいの時ですか?

深作:中学生ぐらいです。

愛原:いちばん多感な年齢じゃないですか。

深作:(笑)。そうなんですよ。最初はショックなんですけどね……。その後の別の彼女さんの場合、蜷川幸雄さんの『ハムレット』(1988年)を観にいって、オフィーリアがすごく素敵だったから「絶対観に行ったほうがいいよ」と薦めたら、観に行って惚れちゃった、みたいな。

愛原:え……(絶句)。

深作:今度は僕が責任感じちゃうわけですよ。

愛原:(気を取り直したように)中学生ぐらいの時、すでにオフィーリアを演じている俳優のすばらしさをきちんとお感じになられ、それをお父様に薦める健太さんの俳優を見る目が素晴らしいですね。

深作:娘さんだとさすがにそういうわけにはいかないですよね。

愛原:そうですねえ。そういう時、健太さんはお母様の味方にはならなかったんですか?

深作:親父が俳優からインスピレーションを受けていることが分かるから僕は受け止めちゃったんですよ。でも、母は本当に可哀想だったと思います……。

愛原:はあ(ため息)。

深作:……話題を変えましょう!

愛原:健太さんは稽古で怒ったりしますか?

深作:僕は怒らないですよ。父は現場で怖いと言われていましたし、僕自身も先輩に怒られて育った最後のほうの世代です。助監督時代は先輩に蹴られることなんてよくあることでした。そういう時、咄嗟に反射神経からアイデアが閃くことも体験しています。だから今の若い世代のスタッフにもピンチの時の反射神経を覚えてほしくてつい厳しい言葉を使ってしまうこともあります。でも俳優さんには怒らないです!

愛原:宝塚も厳しかったので私は厳しく指導いただけるほうが嬉しいです。私もギリギリ、スパルタ世代です。だから、私も追い詰められた時の反射神経は実感できます。体で覚えた記憶によっていま踏ん張れるということもありますよね。

深作:そうなんですよね。もちろん、暴力や理不尽な指導は絶対にあってはならないことですが、親や先輩に怒られることも大事だと僕は経験上思っています。そうやって、伝わっていくこと、伝えていくこともあると思うんですよね。

愛原:そう思います。

深作:つかさんは蜷川さんと二分するくらい厳しいお話はいろいろ伺いますが(笑)。

愛原:灰皿投げとかですか。

深作:見たことはないですか?

愛原:ないです。私はもっぱら以前父とお仕事をご一緒頂いていた被害者の会(笑)の方々から昔の話を聞かせて頂いています。宝塚を辞めた後にこのお仕事を続けようと決めたお陰で、現場で時折、父とご縁のあった方々から父の話を伺えるので幸せだと感じます。生前のお話を聞くことで父の魂を近くに感じることができてありがたいです。

深作:うちも亡くなって17、8年経ちますが、未だにスタッフや俳優さんから僕の知らなかった話を聞くし、初めて入った店に親父のサインが飾ってあるのを見ることもあります。そうすると未だ生きているなーって感じがします。

愛原:ありますねそういうこと。

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