細田守と新海誠、2大ヒット作家が“都市と田舎”を扱う理由 写実的な描写の姿勢は真逆?
物語にとって、「場所」は極めて重要な意味を持つ。
それは、「たんなる舞台の下準備以上の存在」であるべきで、「登場人物にとって意味がある場所であり、感情が呼び起こされる場所であり、葛藤や個人的な悲劇や成長の機会を与えてくれる」ようなところでなくてはならない(『場面設定類語辞典』アンジェラ・アッカーマン、ベッカ・パグリッジ著、フィルムアート社、P12)。
近年の日本映画の2大ヒットメイカー、細田守監督と新海誠監督は、両名とも現代日本を舞台にすることが多い。両者はともにオリジナル企画をヒットに導く力があるわけだが、どちらも現代の日本、とりわけ都市と田舎を頻繁に取り上げている。
なぜ2人は、現代日本の都市と田舎を舞台に選ぶのか。その舞台設定は何を描くために必要としているのだろうか。
オリジナル作品と世界観
近年、「世界観」という言葉がよく使われる。この言葉は、「世界とはこういうものだ」という世の中や人生に対する考えや見方を指す。近年では、商品のブランド戦略などにも用いられているが、物語などを指して使われる場合、状況や設定の総称のような意味合いで使われることが多い。
その物語がファンタジーであるか、SFであるか、現実に極めて近いのか、現実だけど不思議な力が出てくるものか、パラレルワールドが存在するのか、時間が戻ったりするのか、異世界に転生することがあるのか、あるいはさらに細かく、どのような組織が世界を支配しているのかなどなど、物語を駆動する上で必要な設定を大まかにくくった言葉と言えようか。
現代のストーリーテラーはまず、千差万別となった世界観を観客に理解してもらうために腐心する必要がある。世界観がわからないと、物語にもうまく感情移入できないからだ。
近年、映画の世界ではマーベル・シネマティック・ユニバースが世界を席巻したように、巨大な世界観を構築して、様々な物語を展開していく「ワールド・ビルディング」という手法が好まれている。あらかじめ世界観を一つ用意して共有していることにすれば、各作品はゼロから世界観を説明する必要はないし、シリーズを重ねるごとに世界への没入感を深め、魅力を増していく。漫画原作のアニメやテレビシリーズの劇場版にも同様のことが言える。
例えば、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』も、世界観をゼロからわかってもらおうという描写はなかった。すでに漫画・TVアニメが大ヒットして、みな鬼が人を食う世界だと知っているからだ。
しかし、オリジナル企画の映画は、そうはいかない。常にゼロから世界観を観客に共有してもらうための工夫が必要になる。
この点において、現代社会を舞台にするのは都合が良い。なぜなら、現実は最も多くの人間が共有しているイメージだからだ。
そして、実在の場所を舞台することはリアリティの確保にもつながる。場面設定類語辞典のアンジェラ・アッカーマン、ベッカ・パグリッジは「ある特定の都市名を挙げたり、よく知られている名所に触れたりすることも、読者に対して即座に場所の特徴を伝えることで、ほかの場合であれば成し遂げにくいレベルのリアリズムを描写に注ぎ込むことが可能になる」(P.304)と書いている。
趣味も嗜好も細分化された現代社会で、多くの観客の関心をつなぎとめる舞台として、現代は最も効率の良い舞台設定と言えるだろう。細田監督も新海監督も現実の町並みを描写することにこだわりを持った作家であったことが、今の時代にオリジナル企画をヒットさせるための好条件にマッチしていたと言える。