『おちょやん』が伝えた“今ある人生”の尊さ ブレることなく貫かれた“普通”の理念

「もしあのまま私ら一緒にいてたら、どないな人生があったんやろか」

「そないなこと、考えてもしゃあないがな」

「そうですな。今ある人生、それがすべてですなあ」

 とうとうこのドラマは、こんな境地にまでたどり着いた。『おちょやん』(NHK総合)の最終週「今日もええ天気や」では、千代(杉咲花)が道頓堀に凱旋、舞台女優として復帰する姿が描かれた。『お家はんと直どん』の台本に自ら加えたこの台詞は、千代が苦しみ抜いて、立ち上がった先に見つけた答えだ。

 失ったものを嘆いても、時は戻らない。誰かを恨んで生きても、幸せにはなれない。辛いことも悲しいことも全部ひっくるめて、あの時があったから今がある。そして今ここにある人生こそが私のすべて。これが、千代の出した結論だった。

 21週・22週では、継母・栗子(宮澤エマ)との再会で千代の人間としての再生、ラジオドラマ『お父さんはお人好し』の成功で女優としての再生が描かれたが、最後の課題として残っていたのが千代の舞台への復帰、そして一平(成田凌)との対峙だった。

 9歳の千代に『人形の家』の台本を与え、千代の役者人生のきっかけをくれた鶴亀株式会社の熊田(西川忠志)が、今度は一平の最新作『桂春団治』の台本を携えて、鶴亀新喜劇への出演を依頼しにやってきた。2年前のあの日、感情がコントロールできず台詞に詰まってしまった、つまり舞台女優・竹井千代が一度死んだ場所。そのゼロ地点からの生き直しだ。これはかつて、栗子だけが千代を救うことができたのと同じで、千代が自身の傷の“根因”と向き合ってこそかなう“快復”なのだ。

 娘となった春子(毎田暖乃)が寝静まった夜、千代は熊田から渡された『桂春団治』の台本をめくる。そこには、一平がようやく丸裸になって自分を見つめた先の「愚かで哀れな人間」の姿があった。かつて「お前の苦しみはお前にしかわかれへん」と言っていた一平が、「わかれへん」うえで、それでもあの後、何度も反芻し、とことん向き合ったであろう、自分が千代にしてしまったことの重さ、己のアホさ。それが台詞一言一言に落とし込まれていた。

 「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇である」とチャップリンは言ったが、一平はようやく自分の生き様を「ロングショット」でとらえることができたのだろう。壮大な“自虐ネタ”として身を削って書きながら、一平のたどりついた「本物の喜劇」。それは「アホで愚かな俺を、どうか笑てくれ」という観客への、そして千代へのメッセージにも見えた。「贖罪」ではない。謝って許されることではないと、おそらく一平はわかっている。

 台本を読んで、千代が何を思ったのかは語られない。しかし、娘の寝顔を見ながら千代は決心したようだ。算数と理科が苦手だからと、看護婦の夢に尻込みしていた春子に「はなから諦めたら何も始まらない」ということを母として示そうと。ようやく取り戻した役者としての自信、そして春子の母になることで、千代は「転んでもただでは起きない」強さを身につけていた。

 千代は、一平と灯子(小西はる)に会いに行く。誰のためでもない、千代のためだ。千代自身があの2人と、子の新平と対面しても毅然としていられるか、それを確かめにいったのだ。千代は自分の傷を飲み込んだわけではないだろう。「かさぶた」は乾いたとはいえ、おそらくまだ消えていない。ただ、父・テルヲ(トータス松本)と対峙した時と同じ、一平を許す/許さないという問題とは別の「一区切り」だ。うろたえることなく自分がここに立つことができるのを確かめて、千代は一区切りを置いた。そしてまた前に進む。

 テルヲの血を引いた姪の春子を養子に迎えたこと、テルヲやヨシヲ(倉悠貴)に見せることのできなかった喜劇を春子に見せてやりたいという千代の決意。それを聞いた一平の静かな、何度もの頷きが全てを物語っていた。同じ魂の片割れ、合わせ鏡の「腐れ縁」。芝居をすることで共に生きてきた20年来の同志だ。千代がどれだけの苦しみを乗り越えて、どんな思いで出演を決めたのか、一平が一番わかっている。かつて役者を辞めようとして、千代に発破をかけられ、「かなんわなあ、千代には」としみじみ漏らした、あの時の眼差しが、一平のなかに一瞬宿った気がした。

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