映画『モンスターハンター』は本当にテーマ性が希薄なのか 娯楽作品としての構造を紐解く

 今回の映画版は、とにかくアクションシーンが連続するつくりとなっている。それ以外には、ジョヴォヴィッチ演じる主人公のアルテミスと、トニー・ジャーが演じるモンハン世界のハンターとの交流が挟まれるくらいだ。初めて見たマジックテープやチョコレートにハンターが感激するシーンや、亡くなった家族や文化を侮辱してしまったと感じたアルテミスが素直に謝るシーンなど、お互いに言葉が通じず、当初は仲の悪かった二人が互いに歩み寄っていく描写は丁寧であり、微笑ましく感じられるものの、ポール・W・S・アンダーソン監督自身が書いた脚本自体は非常に簡素である。それは映画『バイオハザード』シリーズにも共通する、アンダーソン監督の作家性であり、もともとの「モンハン」の特徴でもあるのだ。

 アニメーション監督として日本を代表する存在である押井守は、映画祭のイベントにおいて、自分の映画には本当はアクションが必要ないと述べている。なぜなら、アクションが継続している間はストーリーが停滞している状況にあるからだという。ストーリーを語りたい押井監督としては、むしろ会話シーンの方を、自分の特色を出したりテーマを打ち出していく上で、はるかに重要だととらえているのだろう。その意味では、ほぼアクションで構成されている『モンスターハンター』は、ほぼストーリーが存在しないということになってしまう。

 基本的に、劇映画においてストーリーやテーマ性が希薄だというのは、本格的な映画作品としては欠陥があると見られる向きがある。アンダーソン監督が、批評家や映画ファンの一部から評価されにくいのには、そういった理由があるからだろう。しかし、アンダーソン監督は、そもそもアクションを連続させ、刺激的だったりスケール感の大きいヴィジュアルを見せていく作品づくりを徹底しているのであって、ジョヴォヴィッチもまた、そんな監督とのコンビによりスターダムを駆け上ってきたのだ。

 このような、活劇が継続していく“ローラーコースター”的なアクション映画は、1980年代前後のポップカルチャーと連動して流行した形式である。そのような映画の代表が、スティーヴン・スピルバーグの『インディ・ジョーンズ』シリーズであり、ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』シリーズだった。彼らが目指したのは、サイレント時代に隆盛した、ヒーローものの短編映画シリーズである「連続活劇」映画を、長編映画のフォーマットで行うという試みであった。

 この時代、スピルバーグやルーカスは、活劇の興奮が持続することが映画の力であると考えた。観客はストーリーやテーマではなく、活劇がもたらすアクションを観にきているはずだという理解である。押井監督とは真逆の考え方であるが、これもまた真理であるといえよう。ポール・W・S・アンダーソン監督は、まさにこのような考え方をさらに進め、活劇以外の部分を最小にとどめようとしているという意味で、ある種の先進性を持っているのである。

 果たして、このような活劇映画には、本当にテーマ性が宿らないのかといえば、もちろん宿り得るはずだ。例えば、このような活劇映画の権化ともいえる『スター・ウォーズ』の旧3部作を見ても、劇中に登場する不思議な力である“フォース”についての哲学的な理解や、ギリシア悲劇を連想させる家族の運命的な物語が含まれているのだ。これは、ルーカスが『ホビットの冒険』や『ナルニア国ものがたり』などの小説から得た、強靭な神話的構造を『スター・ウォーズ』シリーズに転用しているからだと考えられる。そのようなファンタジー小説のベースとなっているのが、神話や古い伝承などである。『スター・ウォーズ』が、アクションを連続させる構造であるにもかかわらず、ある種のテーマ性を帯びてくるというのは、アクションシーン自体や、それに付随する展開も神話構造の一部として設定されているからだろう。

 現実とファンタジー世界を繋がる異世界転移作品の代表といえるのが、小説『ナルニア国ものがたり』であったように、今回の『モンスターハンター』もまた、そのような枠組みを利用することで、「モンハン」の世界に、現実と連結させた新たなテーマ性が加わることとなったのだ。それは、現実の世界に生きる人々の“責任”についての問題である。

 主人公アルテミスは、モンスターとの戦いの中で、モンハン世界に生きる人々が、いかに生死の境に追いやられているかという事実に、身をもって直面することになる。だからこそ、モンスターと渡り合うことのできる力を持った数少ない人間である自分が与えられた責任に気づき、ある生き方を選ぶことにするのだ。

 例えば、発展途上国の国々のことを、先進国の人々は“第三世界”と呼ぶ。それは、比較的裕福で平穏な生活を送ることができる人々がいるのに対し、貧困や暴力、戦争に身を投じなければならない人々が、同じ地球上に同時に存在することを意味している。だが、実際に存在している二つの世界は、地理的な条件や経済的な条件によって分断され、多くの人は関わりようがないのが現実である。しかし、本当にそれで良いのか。二つの分断された世界は、紛れもなく繋がった一つの世界なのである。

 本作は、このようにファンタジー小説によって媒介された神話的な構造を取り込むことによって、アクションを連続させながら、現実に横たわるテーマをも、じつは取り込んでいるのである。そのことに本作が自覚的であることが分かるのは、分量として少ない人間ドラマ部分の多くを、異なる文化を持った人間たちの相互理解にあてているからだ。アルテミスに生じた責任感は、一見異なる世界、異なる文化が、実際には同一のものであることを理解したからこそなのだ。

 こういった作風は、『キングコング:髑髏島の巨神』(2017年)など、ゲーム作品からの影響を公言するジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督とも重なるところがある。つまり、ここまで述べてきたように、「神話」と「ファンタジー小説」、「長編映画」と「短編活劇」、「アクションを連続させる映画」と「ゲーム作品」は、それぞれ媒体やジャンルで分断されているようで、それぞれに関連性があり、創作物としても地続きにあるということだ。そして、お互いに影響を与え合うこともできる。であれば、積極的にお互いの長所を取り込むことで、新しい表現、新しい世界が生まれるのではないだろうか。それは、まさに本作が物語として描いた、二つの世界の問題とも根底で合致するものである。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
映画『モンスターハンター』
全国公開中
監督・脚本:ポール・W・S・アンダーソン
出演:ミラ・ジョヴォヴィッチ、トニー・ジャー、ティップ・“T.I.”・ハリス、ミーガン・グッド、ディエゴ・ボネータ、山崎紘菜、ロン・パールマン
原作:『モンスターハンター』(カプコン)
製作:コンスタンティン・フィルム、テンセント・ピクチャーズ、東宝
配給:東宝=東和ピクチャーズ共同配給
(c)CONSTANTIN FILM Produktion Services GmbH
公式サイト:monsterhunter-movie.jp

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