『エヴァンゲリオン』を実写パートから考える 旧劇場版と新劇場版の“虚構”と“現実”

※本稿は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』と『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを君に』の内容、いわゆるネタバレに触れております。ご了承ください。

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開された今、改めて2006年に庵野秀明総監督が書いた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』所信表明を読むと、その志がぶれていないことに驚く。特に目を引くのが「「エヴァンゲリオン」という映像作品は、様々な願いで作られています。(中略)現実世界で生きていく心の強さを持ち続けたい、という願い。」の部分だ。

 その前年に刊行された漫画『監督不行届』の解説で庵野は、著者であり自身の妻でもある安野モヨコの作風を「マンガを読んで現実に還る時に読者の中にエネルギーが残るようなマンガ(中略)『エヴァ』で自分が最後までできなかったこと」と評している。

 作品という虚構から現実世界に還り、そこで生きていく強さ。

 テレビシリーズおよびそれに連なる旧劇場版シリーズと『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズの大きな違いは、ここにあるのでないだろうか。

 本稿では『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを君に』と『シン・エヴァンゲリオン劇場版』、この2つの完結編における実写パートを軸に、旧エヴァと新エヴァでの虚構と現実の関係について考えていきたい。

レイ「虚構に逃げて真実をごまかしていたのね」
シンジ「僕ひとりの夢を見ちゃいけないのか」
レイ「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」
シンジ 「じゃあ、僕の夢はどこ?」
レイ「それは現実の続き」
シンジ「じゃあ、僕の現実はどこ?」
レイ「それは夢の終わりよ」

 『Air/まごころを君に』終盤で、人類補完計画が発動するなか、碇シンジが内的宇宙で綾波レイと交わす会話だ。

 レイは、シンジがひとりで見ていた夢は虚構であり、その虚構は「現実の埋め合わせ」、現実では充足できないものの代用品に過ぎないと言い切っている。そして現実はその虚構が終えた先にあると。

 会話の背景には第3東京市と思しき風景、街の雑踏、ミサトやアスカ、レイに扮した女性たちの映像が流れる。ここがいわゆる実写パートだ。

 さらに「現実の埋め合わせ」の台詞の箇所では先の劇場版を観ていた観客を、「僕の現実はどこ?」の箇所では「エヴァンゲリオン」の感想が書かれたモニタ画面(「庵野、殺す」も含む)を矢継ぎ早に映し、現実と虚構がはっきりと分断された次元にあることを観客に提示した。

 実写パートの後、シンジは他者の存在する世界=現実を選択するものの、彼が帰還するのは虚構のなかの現実であり、それも唯一の他者であるアスカに拒絶されるという、虚構と現実の双方を否定するともとれる終わり方だった。事実、前述の『監督不行届』の解説で庵野自身、当時はアニメ漫画ファンや業界内の閉塞感に嫌気が指す反面、自身もオタクであることへの嫌悪から自暴自棄になっていたと記している。