アニメにおける「映画とは何か」という問い 2020年を振り返るアニメ評論家座談会【後編】

『魔女見習いをさがして』のメタ的視点

渡邉:『魔女見習いをさがして』は、藤津さんはけっこう褒めていらっしゃったんですね。

藤津:基本的には良い映画だと思っているんですけど、これが1本の作品として成立していることは不思議に感じました。普通であれば、もっとバラバラになっちゃうはずなんです。変にリアルな部分と漫画チックな部分が混在しつつ、そこにある感情はきちんと本物っぽい感じになっている。そのいろいろ混ざっている感じが作りが普通ではないんですよ。一歩間違えると台無しになってしまう可能性が高いのに、佐藤順一監督の絶妙なバランス感覚の上で成り立っているという印象を受けました。

杉本:僕は『おジャ魔女どれみ』を観ていなかったのですが、『魔女見習いをさがして』には感動しました。現代にはコンテンツを生きる糧にしている人がたくさんいるんだということを真正面から描いた作品だったからです。人生の目標は何かと問われた時に、これまでなら恋愛の成就とか、仕事での達成感とか、社会での地位の上昇だったりしたと思うんですが、今はそこからドロップアウトしても、好きなコンテンツと気の合う仲間がいれば、自分らしく生きられるんだということをあの映画は描いていて、大変現代的なテーマだと思いました。

『魔女見習いをさがして』(c)東映・東映アニメーション

渡邉:今、杉本さんがおっしゃったように、私も、現代のコンテンツの受容経験の本質を象徴的に描いた作品だと思いました。あと、この作品では、『おジャ魔女どれみ』という既に20年の歴史を持つ大きなタイトルを使って、「過去のアニメの歴史や個人を超えた記憶と今の私たちがどう繋がりうるか」という問いに対して、それを自分の子どもの頃の思い出や、身体的な感覚を拠り所にして、もう一度再生することを試みるという回答を提示しているのではないかと感じました。これはアニメに限らず、映画でもそうですけど、今やYouTubeやNetflixの動画のレコメンドみたいにあらゆるコンテンツが歴史の文脈を剥ぎ取られてフラットに消費されてしまう時代に、かつてあったアニメ史や映画史の歴史的な繋がりや文脈性をどうやって継承していくかという問題が問われていると思っています。

 たとえば、21世紀の映画やアニメは、『メメント』から『君の名は。』、『ファインディング・ドリー』まで、しばしば“記憶喪失”の問題を描きます。これはまさにネットやYouTubeによって観客身体からコンテンツの歴史的記憶が失われていく現状を暗示していると見ることができる。今は、“記憶喪失の時代”なんですね。それでいうと、『魔女見習いをさがして』では、広島でフリーターをやっているレイカと彼女のお父さんとの関係が出てくるじゃないですか。批評マインドでいえば、「父」というのは、まさに歴史や社会との繋がりを表しているモチーフなわけですけど(笑)、したがって、ここにはアニメの歴史とか記憶とどうか変わっていくかというテーマが隠れている。この読みがそこまで牽強付会でもないかなと思うのが、レイカ父娘は、「絵を描くこと」で結びついているわけですが、『この世界の片隅に』や『ジョゼと虎と魚たち』といった作品でも同様に絵を描くヒロインが登場するわけですけど、『この世界の片隅に』がそうだったように、これは明らかに「アニメ」そのものの隠喩と見ることができるでしょう。そういう意味で、かつてのように、アニメの大きな歴史とか、記憶にもはや繋がれないというときに、自分の子どもの頃の記憶にあったところから、過去の何か大きなものに何とかつながっていこうという模索を現代のコンテンツ消費の状況と絡めて描いた映画として、すごく興味深いと思いました。

『ジョゼと虎と魚たち』(c)2020 Seiko Tanabe/ KADOKAWA/ Josee Project

杉本:世代の共通体験というものは、コンテンツぐらいしかないのかもしれませんね。だから、現代において、記憶を頼りに友情を育むようなストーリーは、もしかしたらコンテンツを媒介にしないと成り立たないのかもしれません。

渡邉:あと『魔女見習いをさがして』では、どれみたちが主人公の女性たちの一種のイマジナリーフレンドとして出てきますね。映画でも、2020年は『ジョジョ・ラビット』や『私をくいとめて』など、似たようなイマジナリーフレンドを描いた作品が目立ったのも個人的には気になりました。

藤津:アニメの場合は児童文学と近しいジャンルなので、イマジナリーフレンド的なものは多いですよね。しかも、もともとが子供向けの媒体からスタートしたので、成長というモチーフとの結びつきも強く、そういう意味では、『魔女見習いを探して』の場合は、イマジナリーフレンド的ではあるけれど、成長とともに見えなくなるわけではなく、どちらかというと、人生の随伴者のように描いています。

渡邉:しかも、イマジナリーフレンド的なキャラクターって、まさに『おジャ魔女どれみ』のような魔法少女アニメに伝統的に必ず出てくる。なので、『魔女見習いをさがして』自体が、ある種の「メタ魔法少女アニメ」みたいになっているんですよね。そこも面白い。

藤津:『魔女見習いを探して』は、企画した側は、そんなにメタ的なものを狙ったわけではないと思うんですよね。もう少しシンプルに、かつて『おジャ魔女どれみ』を観た人たちにいま何を作るかということを考えた結果として、メタ的というか、観客を照らし返す作品になったのは面白かったと思います。

「一生に一度は、映画館でジブリを。」

渡邉:コンテンツの需要供給ということでいうと、2020年のアニメ界隈のトピックとして、「一生に一度は、映画館でジブリを。」というコロナ禍でのジブリ作品のリバイバル上映企画も挙げられると思います。……しかしこの企画、裏を返せば、今の日本ではもう「映画館でジブリを観たことがない人たち」が既に一定数いるということでもあるわけであって、時代の曲がり角を感じましたね。これは実際に、ジブリをテーマにした大学の講義でも、ここ数年感じています。授業のコメントシートでも、「ジブリを1作も観たことがありません」という学生がどんどん増えてきている。

『千と千尋の神隠し』(c)2001 Studio Ghibli・NDDTM

 また、「観たことないんですけど、『となりのトトロ』って狭山事件をモデルにしているんですよね? まとめサイトで読みました」という感想もすごく多い(笑)。もちろん、『トトロ』と狭山事件の関係は単なる都市伝説なわけですけど、つまり、今や20歳以下くらいの若者たちにとっては、もはやジブリの存在自体が「都市伝説」的なものになっているというか、フォークロアのように「実際に観たことはないけど、なんとなく日本人みんな誰でも知っているもの」になっているんですよ(笑)。確かに、『風立ちぬ』の劇場公開でさえもう8年前ですから、それも当然ですよね。私は、ジブリアニメはいわば日本人なら誰でも観ている「最後の国民的コンテンツ」というか、少なくともそういう信憑が成立する最後のコンテンツだと捉えていましたが、もうそういうものでもなくなってきている。今年のリバイバル企画は、そういうことも表していたと思いました。

藤津:もはや『白雪姫』とかそういった昔話の仲間に入ってしまっているんですね。「聞いたことないけど、『浦島太郎』のあらすじは言えます」みたいな(笑)。

渡邉:まさにそうなんです(笑)。

藤津:スタジオジブリが配信をやっていないですからね。若い人はアクセスできないんでしょうね。ブルーレイは買わないだろうし。『千と千尋の神隠し』は、リバイバル上映があって、『鬼滅の刃』に抜かれるかもという土壇場で興行収入の積み増しがあったりしましたが(笑)、改めて今きちんとお客さんが入ったというのもすごいです。

杉本:この状況下で8億円稼いだというのは、相当にすごいと思います。

藤津:それでいうと、『未来少年コナン』の再放送もありました。これも、コロナの影響で新番組が放送できず、穴が開いたところを『未来少年コナン』で埋めたと。そうしたら最終回が、大阪都構想の住民投票の開票と被って、時間がズレて観れなかった人が多く出てしまった。それを受けて、後日再放送までしている。こんな厚遇で『未来少年コナン』の再放送がされて、そこそこ話題になったんですよね。配信でいろいろな作品にアクセスできるようになった時代は、新作と旧作が同じフィールドで戦う時代でもあるということが、テレビを舞台にしたことで、すごく端的に示されたなと感じました。もちろん大衆娯楽は新作の方が有利なのは間違いありませんが、古い面白い作品と競らなきゃいけないというか、選択肢に入ってくる未来を実感したなというのがひとつあります。

『未来少年コナン』(c)NIPPON ANIMATION CO.,LTD.

渡邉:まさにそうですね。先程のリブートの話もありましたが、考えてみると2020年はコロナの影響で、アニメに限らず、2005年の『野ブタ。をプロデュース』(日本テレビ系)など過去のドラマが地上波で流れ、しかも面白い作品は改めて脚光を浴びるという特別な年でしたよね。

杉本:コロナ禍で映画館は大変な状況にはなりましたけど、昔の名作に光が当たるのはいいことだと思いますし、そういう意味では良い機会になったのかなと思います。確かに、今年スタジオジブリの存在感は大きかったですね。お父さん、お母さんが小さい子を連れてたくさん見に来ていましたし、そこでまた新しい観客を作ったんじゃないかな。

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