コロナ禍の今こそ映画で旅へ 『エル・スール』『立ち去った女』など独自の感性極まる4作を紹介

 新型コロナ禍では旅ができない。同じ景色ばかりを目にしながら、人生の貴重な日々を潰さねばならぬ灰色の閉塞感――。こんなご時世だからこそ、改めて、時空間を自在に旅する装置としての映画の有り難みが身に染みる。

 特に年末年始、どうせなら思いっきり贅沢に、極上の映画旅行に出かけようではないか。今回ご案内する旅先は、スペイン、フィリピン、ハンガリー。詩的な映像感覚と精緻なクラフトマンシップが光る至高の4作品だ。いずれも各々独自の風土や歴史に深く根差しつつ、「その先」の場所にも飛ばしてくれる。

 現実のコードを超えた領域にまで踏み込めるのが映画的マジカル・ミステリー・ツアーの醍醐味だ。では、さっそく出発!

『ミツバチのささやき』『エル・スール』

『ミツバチのささやき』(c)2005 Video Mercury Films S.A.

ザ・シネマメンバーズで『ミツバチのささやき』を観る

 まずはスペインから、ヴィクトル・エリセ監督。1940年生まれの彼は現在80歳になるが、寡作で知られる映画作家で、1992年の『マルメロの陽光』を最後に長編映画は3本しか撮っていない。最初の2作、1973年の『ミツバチのささやき』と1983年の『エル・スール』は、日本ではシネ・ヴィヴァン六本木(1983年開館~1999年閉館)で1985年に初公開。『ミツバチのささやき』は同館で記録的な動員数となり(1998年公開の『CUBE』に抜かれるまではトップの成績だった)、当時のミニシアター・ブームを象徴する一本としても記憶される。

 スペイン映画といえばペドロ・アルモドバルに代表されるような濃厚でカラフルな世界をイメージする人が多いかもしれないが、ヴィクトル・エリセはむしろ真逆に極めて静謐で寡黙。淡色の内省的なトーンで、ぎりぎりまで説明を削ぎ落としたミニマムな作風が特徴だ。

『ミツバチのささやき』(c)2005 Video Mercury Films S.A.

 「むかしむかし……」との語り出しで始まる『ミツバチのささやき』の時代設定は、まさしくエリセが生まれた1940年頃。スペイン内戦が右派反乱軍の勝利となり、フランコの独裁政権が敷かれた頃、カスティーリャ高地の小さな村に一台のトラックがやってくる。それは映画の移動巡回車で、公民館で『フランケンシュタイン』(1931年/監督:ジェイムズ・ホエール)を上映してくれるのだ。養蜂家の娘である6歳の少女アナ(アナ・トレント)はこの映画に強烈な印象を受けた。

 あの怪物は、なぜ仲良くしていた少女メアリーを殺してしまったのか? ショックが腑に落ちないアナの問いに、9歳の姉イサベルは「本当はあの子も殺されてないの。映画は全部ウソだから。あの怪物の正体は精霊よ。この村のはずれの一軒家に隠れているの。だって私見たもの。お友だちになれば、いつでもお話できるのよ」と寝室で悪戯っぽく告げる。その話を信じ込んだアナは、それから精霊を見つけるため、あらゆるものに目を凝らし、敏感に耳を澄ます――。

 イザベルとともにアナが線路に耳をつけるところの素晴らしさなど、かつてシネフィルの間で語り草になった名シーンはたくさんあるが、この映画を物語の枠組みや整合性で「理解」しようとすることは、おそらく何の意味もない。精霊の話に導かれて世界を自分なりにキャッチしようとする幼いアナのように、我々も全身全霊で「感受」するしかないのだ。そのぶん解釈は観る者個々に、広く多様に開かれている。

 筆者がとりわけ印象に残っている本作の解釈は、『淵に立つ』(2016年)や『よこがお』(2019年)などの監督、深田晃司の弁だ。彼は中学3年生の時、『ミツバチのささやき』に出会って、どんな同時代の映画よりも圧倒的に「リアル」な衝撃を受けたという。

「僕が当時感じていたニヒリズムと合致したんです。あの映画では主人公のお父さんが養蜂家で、人生の意味云々とは無縁にただ生きている蜂の生態が描かれている。一方で主人公たちの家の窓が蜂の巣の形をしているんです。つまり蜂と人間の営みがイコールとして提示されていて、それでも少女は人生に神秘を感じ、やがて喪失していく。これは極めて現代的な世界観や人間把握だと思いました」(『SWITCH』2016年10月号:特集「映画監督のメソッド」、筆者によるインタビューより)。

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