ルル・ワン監督が『フェアウェル』で描いた“文化間の軋轢” 印象的なラストシーンの意味とは?

 医療における告知の問題は、アメリカやヨーロッパを含め様々な国でいろいろなケースがあり、一概に国別で厳格な違いがあるということを断言することはできない。だが、本作で描かれるビリーの葛藤そのものは本物である。なぜなら、本作は監督のルル・ワン自身が実際に体験した出来事を、かなり忠実に再現した物語だからだ。もちろん、ダミーの結婚式が実際に開催され、新婦を装って式に出席してくれた日本人女性も実在するという。

 興味深いのは、ビリーを含めてナイナイを騙そうとする親戚たちが『レザボア・ドッグス』(1992年)のワンシーンのように、集団で歩く姿をスローモーションでスタイリッシュに映し出す部分だ。ここでは“個”に対する“集”の価値というものを強調しようとしているように見える。そして親戚たちの策略は、実際に功を奏した部分がある。アメリカに帰国したビリーが、ナイナイが健康のために習慣化している太極拳のかけ声で気合を入れるシーンからも分かるように、中国の文化に対するリスペクトを感じられるのだ。

 本作とテーマの近い、ルル・ワン監督の過去の短編作品『Touch(原題)』は、実際の裁判を基に、台湾出身の老年の男性が、アメリカで“あるもの”に気軽にタッチしたことで逮捕されてしまう様を描いている。しかし、そこには両国の文化の違いによる大きな誤解があった。ルル・ワン監督はこれまで、アメリカと中国の文化に触れ、両方の価値観、文化圏の間に立ってきたことで、そこで生まれる軋轢に非常に敏感なのである。だから、アメリカの価値観で中国文化を頭ごなしに批判するという態度には出ないし、その逆の立場もとらない。それがワン監督の特性だといえよう。

 中国や日本を含めたアジアの観客のなかで、個人主義やグローバルな思想を持つ者にとっては、本作における中国文化への尊重について、保守的で抑圧的な文化を擁護する姿勢だと感じる場合もあるかもしれない。だが本作は、基本的にはアメリカ映画として、まずアメリカの観客に提出するために作られているということを念頭に入れなければならない。ここでの中国人やアジア人の保守性をことさら批判することで偏見を生み出したり、それを助長するのではなく、違いがあることを認めながら、相互の理解を進めるという考えをアメリカで広める役割を、本作が背負っている部分もあるのだ。

 『クレイジー・リッチ!』同様、本作もアジア人によってキャストが占められている。アメリカ娯楽映画においてそのようなスタイルの作品が作られるというだけでも、大きな前進なのである。『クレイジー・リッチ!』は、描かれる人々の特殊性や、アメリカナイズされた価値観が強調されていたように、真の意味でアジアが描かれた作品とは言い難い。しかし同時に、アメリカで相互理解や多様性を進めるうえで大きな一歩となったことは事実である。本作『フェアウェル』は、より現実に則したアジアの姿を描くことで、さらに大きくその歩を進めた映画だといえよう。

 もちろん、中国や日本などアジアにおける抑圧的な価値観を厳しく批判し、広く世にうったえる作品も作られるべきであろう。しかし、それはまず中国や日本のクリエイターたちが担うべき役割ではないだろうか。アメリカと中国文化の間に立つルル・ワン監督は、自分の立場において最も切実な“文化間の軋轢”を描いたという意味において、彼女のやり方で世界の問題に向き合っているといえるのではないか。

 さて、本作が話題を集め、口コミを広めたのは、印象的なラストシーンが大きく影響していると思われる。これ以降の記述は、重大なネタバレにかかわるので、本作を最後まで鑑賞した観客だけに読んでほしい。

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