『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』とは何だったのか 庵野秀明監督による“繰り返しの物語”を振り返る

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』

 まさに、“REBUILD OF EVANGELION”という仮のタイトルに最も近いといえるのが本作であるだろう。TVシリーズ第6話までの内容を凝縮し、もともとのTV版のシーンを基に、作画し直したりエフェクトをくわえ、ディテール豊かなものとして、旧作を視覚的により新しいイメージに甦らせている。

 とくに『序』が評価された部分は、旧作にあった特撮的なこだわりをさらに追求した箇所にあるだろう。TVシリーズでは「ラミエル」と呼ばれていた、正八面体の形状をした使徒が、3DCGによって鮮やかに形状が移り変わっていく様子は、明らかに旧作よりも心躍らせる表現となっている。一見、同じストーリーの繰り返しに思えるが、他にも、旧作からの微妙な設定の変更が随所にあり、主題歌に宇多田ヒカルを起用するなどの工夫も見られる。

 とはいえ、筆者のように“新しい「エヴァ」”を期待して劇場に観に行ったものの、拍子抜けした観客は多かったはずだ。本作の新しさはあくまでも表面的な部分にとどまっていたからである。そして旧作のような極太の明朝体フォントの巨大な文字を突きつけるような攻撃的な演出にも欠けている。

 だが、たしかに旧作の6話までといえば、旧作としても実験的な演出はまだまだ抑えられていた部分にあたる。その意味では、この抑制は当然といえるのかもしれない。何より、新劇場版から『エヴァ』に触れる観客のために、世界観をある程度オーソドックスに描いていく必要もあったはずである。

 そのなかで最も物議を醸した点といえば、TVシリーズの終盤に登場するはずの人気キャラクター、渚カヲルが早くも登場し、意味深なセリフを口にしていることだ。

 その内容から判断すると、どうもこの渚カヲルだけが、TV版で描かれたエピソードを知っているようなフシがあるのだ。今回の「新劇場版」の世界は、TV版や「旧劇場版」の世界と地続きにあり、何度も同じような出来事が繰り返されているのではないか。そして、渚カヲルだけがそのことを知覚できているのではないか。

 それを裏付けるような描写として、TV版では青い色だった海が、「新劇場版」では赤い色に変わっているという点が挙げられる。TV版では赤い色が見られたのは北極海のみで、「旧劇場版」によって広大な範囲の海が赤くなったのである。つまり、「新劇場版」の世界は、「旧劇場版」の後の世界なのではないかということである。また「新劇場版」では冒頭のシーンにもかかわらず、映し出される山肌には、TV版第3話でエヴァ初号機が投げ飛ばされた跡のようなものまで見られるのだ。

 これらの描写が、ただのデザイン上の変更に過ぎないのか、そしてカヲルのセリフはただのファンサービスに過ぎなかったのか、それとも深い意味があるのかについては、驚くことに13年経ってまだシリーズのなかで明らかにされてはいない。

 もうひとつ、気になるのは、碇シンジがクライマックスの戦闘時に、人類全てを自分が救うような状況に対し、本当にこれが現実の出来事なのか疑問に思う場面が存在するという箇所である。このシーンでは碇シンジが線画を強調した“絵”として描かれている。これは、TV版最終話でも見られた表現。そのとき碇シンジは、“神に等しき存在”と同一化を果たし、世界のかたちを創造できる力を手にしていた。

 ここから、「新劇場版」は、碇シンジが旧作の物語のなかで、もう一度やり直したいという願いのなかで生まれた、“都合の良い作りごと”なのではないかという疑念がわいてくるのだ。そのように考えれば、渚カヲルの謎にも説明がつくのではないか。もちろん、これらはそれぞれ推論のひとつでしかない。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』

 『序』『破』『急』。これは能など、日本の雅楽にある曲や物語の構成にあたる考え方であるという。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』が、このような物語構成によって進んでいくのだとすれば、『破』は当初のリズムや雰囲気を大きく変えるべく機能する作品であるはずだ。

 基本的には『破』も、『序』同様にTVシリーズのエピソードを描いていく。具体的には、7話から19話までと22話、23話の内容を部分的に抜粋するかたちである。だが、列車の線路が分岐するように、当時の人物の運命が、TVシリーズとは異なる方向に進んでいくのが見どころとなっている。

 その変化の象徴となっているのが、新たなエヴァパイロット、真希波・マリ・イラストリアスである。いまだ謎の存在である彼女だが、マリがシンジの行動を眺めながら、「都合のいいヤツ」「匂いが違う」というセリフを吐くように、本作の碇シンジには、やはり本人も気づいていない、何か裏に重大な秘密が存在するように感じられるのだ。

 『破』における変化の中で最も驚かされるのは、旧作では消極的で内省的な性格の碇シンジが、まるで王道ロボットアニメの主人公であるかのように、急に熱血的な面を見せるクライマックスである。そしてTVシリーズでは救うことのできなかった登場人物を救出までしてしまう。

 この描写は、当時賛否の声が乱れ飛ぶ状況を作り上げることになった。『エヴァ』を通常のロボットアニメの文脈で楽しんでいたファンは、『エヴァ』がついに“アニメ”に帰還したという喜びや高揚感から絶賛する向きがあった。一方で、エヴァを文学作品のようなものとして楽しんでいたファンは、本作の展開が日本のアニメーション文化の枠に収まるようなものとして、いったん結論づけられてしまったことに落胆していたところがある。

 『破』に満足したファンの一部から、次回作の上映後に観客みんなでTV版の主題歌「残酷な天使のテーゼ」を歌おうという呼びかけがSNSで飛び出したこともあった。この呼びかけは、声優がSNSで反対したこともあり立ち消えになったが、本作がとにかく多くの観客に刺激を与えたのは確かなことだろう。

 この高揚感は、のちに新海誠監督の劇場アニメーション『君の名は。』の大ヒットにも繋がっているように感じられる。初期作品『ほしのこえ』を観れば分かるように、新海監督は『エヴァ』の多大な影響下にあるアニメ作家のひとりである。そして、少年や少女の紡ぎ出す小さな世界が、大きな物理現象や人々の命運を左右するような『エヴァ』的な状況を描き続けている。

 『君の名は。』が若い観客を惹きつけた理由のひとつは、自分にも手が届きそうな恋愛の世界が世の中に多大な影響を与えたり、自分たちの背後には大きな運命が存在しているという、ダイナミックなファンタジーを提供したという部分である。裏を返せば、将来への不安のなかで、そのような頼れる大きな価値観を若い世代が求めていたということではないだろうか。

 そんな構図を、庵野監督は『破』において、そのまま直球で描いたのである。しかし、これは乗り越えるべき“アンチテーゼ”であったことが、次の作品『Q』で描かれることになる。

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