『窮鼠はチーズの夢を見る』は原作ファンも納得の出来 水城せとな作品のエッセンスがそこかしこに

 原作者の水城せとなは、真木ようこ主演で映画化された『脳内ポイズンベリー』(2015年)や、松本潤主演でドラマ化された『失恋ショコラティエ』(2014年)でよく知られる漫画作家だが、流麗な言葉の存在がその作品の特徴の一つに挙げられる。『窮鼠』もまた例外ではなく、大伴の心の内のモノローグや交わされる対話など、紡がれる言葉のすべてが至言と言っても、決して言い過ぎなどではないだろう。しかし、映画は主人公の大伴の語りによって進めることはせず、あくまでも言葉ではなく映像でこの物語を描くことを選択している。たとえば、ファーストショットが大伴を後ろから見つめる今ヶ瀬の視点であったように、映画は大伴の一人称の物語だけに傾倒せず、今ヶ瀬の心象をもまた同時に映し出す。今ヶ瀬が大伴をいくつかの意味で「追い続けていた」ことを、映画は細やかな描写で綴っていく。大伴の脱いだ下着、飲みかけのお酒、乗っていた自転車……。今ヶ瀬は大伴のぬくもりの残滓を求めるようにして追い続ける。あるいは、今ヶ瀬に「耳掻きをしてほしい」と頼まれた大伴が、するのは拒むがされるのは受け入れるように、部屋での日常のささやかなやりとりにもこの物語の主題が宿る。つまり『窮鼠』とは、恋愛を経て「される」だけの人間が「する」人間へと変化する物語でもあるのだ。

 恋愛が幸福なだけでなどないことは、この物語において幸福な時間がほんの少ししかないことが伝えている通りだろう。映画のドライブで訪れる海は、大伴と今ヶ瀬の間の世界の分断を残酷に知らせる珠玉の場面で美しい。二人がそれぞれ一人ずつ映ったショットの背景に広がる空は、まるで違う表情を浮かべ、同じ時間、同じ場所、同じ空の下にいるにもかかわらず、別の空を背負っているかのように見える。そうして映画は、別の表情の空を切り返すことで彼らが異なる世界にいることの絶望を知らしめさえする。大伴は何度も今ヶ瀬に「違う世界」という言葉を口にするが、異なる世界の主題は、劇中で今ヶ瀬が観るジャン・コクトーの名画『オルフェ』(1950年)にもそのまま繋がるだろう。幽世と現世の異なる世界を描くこの作品は、映画において的確にこの二人の関係性を示唆する劇中劇であるだけでなく、漫画と映画の『窮鼠』の物語を架橋する立役者であるかのようにも存在している。

 今回の映画化に際して発売された同作漫画のリブートエディションには、描き下ろし番外編『黒猫、海へ行く』が収録された。今ヶ瀬が大伴に花火を重ね合わせて「似合うね」と言うと、大伴はそれを素直に受け取って喜ぶが、おそらく今ヶ瀬は大伴が花火のように儚い存在なのだと言いたかったのだろう。「相手を好きになりすぎると、自分の形が保てなくなってしまって壊れる」ために、いつでも目の前に終わりがよぎってしまう。いつでも終わらせられるのだと保険をかけておくことで、わずかに心に余裕を持っておくことができる。いざ終わりがきてしまえばひとたまりもなかったとしても、そうして今日一日をどうにかその人の傍で過ごすことができる。そんなどこか逃げ腰の今ヶ瀬にとっても、そして乗り越えるべき隔たりがある大伴にとってもまた、まさに「恋愛は業」でしかない。水城はかつて「物語はどこで終わらせるかでしかない」と語ったことがある。映画『窮鼠はチーズの夢を見る』が類稀な余韻を残すのは、その潔い幕引きが「恋愛は業」であることを徹底して反芻するからだろう。

■児玉美月
映画執筆家。大学院でトランスジェンダー映画の修士論文を執筆。「リアルサウンド」「映画芸術」「キネマ旬報」など、ウェブや雑誌で映画批評活動を行う。Twitter

■公開情報
『窮鼠はチーズの夢を見る』
9月11日(金)より、TOHOシネマズ 日比谷ほか全国ロードショー
出演:大倉忠義、成田凌、吉田志織、さとうほなみ、咲妃みゆ、小原徳子
原作:水城せとな『窮鼠はチーズの夢を見る』『俎上の鯉は二度跳ねる』(小学館『フラワーコミックスα』刊)
監督:行定勲
脚本:堀泉杏
配給:ファントム・フィルム
(c)水城せとな・小学館/映画「窮鼠はチーズの夢を見る」製作委員会/R15
公式サイト:http://www.phantom-film.com/kyuso/
公式Twitter:https://twitter.com/kyuso_movie

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