『コクリコ坂から』をジブリの歴史から読む 随所に込められた東映動画のメタファーの数々

「カルチェラタン」が象徴するアニメの伝統

 そういうふうに捉えてみると、『コクリコ坂から』は、実はジブリを取り巻くさまざまな歴史や伝統との結びつきが陰に陽に込められた作品であることが見えてくる。例えば、私は、杉本穂高氏、藤津亮太氏と行ったリアルサウンド映画部での鼎談(参照:ポストジブリという問題設定の変容、女性作家の躍進 2010年代のアニメ映画を振り返る評論家座談会【後編】)で、次のように述べた。

例えば2011年の『コクリコ坂から』は、高校生がカルチェラタンという古い部室棟を守る話ですが、あの物語の時代設定も、宮崎監督が東映動画に入社した1963年です。つまり、あの物語は、ジブリに至る「東映動画的なもの」の伝統を守ろうとするメタファーなのです。

 鈴木敏夫は、時代設定を高度経済成長とオリンピックが迫った1963年に、原作から変更した理由について、宮崎自身は、「日本という国が狂い始めるきっかけ」になった時代だからと解説していたと明かしている(前掲「社会全体が前向きだった時代を悪戦苦闘して描いた青春映画」)。ただここでは、この年が、宮崎駿が東映動画(現在の東映アニメーション)にアニメーターとして入社し、アニメーションの世界で仕事を始めた年だったという歴史に注目するべきだろう。

 宮崎や高畑勲など、ジブリを作った人々がアニメーション業界に入る出発点となった1956年創立の東映動画については、昨今、広瀬すず主演の朝の連続テレビ小説『なつぞら』(2019年)によって広く知られるようになったかもしれない。「東洋のディズニー」を目指してクオリティの高い「漫画映画」を作り始めた東映動画だったが、戦後の日本のアニメーションは、その後、マンガ家の手塚治虫率いる虫プロダクション(虫プロ)がテレビアニメの製作を開始したことによって大きく変わっていく。有名な話だが、毎週30分のアニメ作品を放送するために、虫プロは必要悪として作画枚数を減らしてアニメならではのなめらかな動きをあえて簡略化してしまう「リミテッド・アニメ」の技法を採用して、現在の「アニメ」に繋がる日本のアニメーション表現の基礎を生み出したのだった。

 そして、60年代前半までに東映動画が掲げていた、「漫画映画」本来の動きの魅力を重視した作品作りを目指す宮崎や高畑といったジブリアニメのクリエイターたちは、そうした虫プロ系のリミテッド・アニメ作品のあり方に総じて反対してきたのだった(例えばそうした考えは、宮崎・高畑の先輩格であるアニメーター・大塚康生の著書『作画汗まみれ』などにはっきり表れている)。ともあれ、その東映動画からスタジオジブリに通じる古き良き「漫画映画」の伝統や歴史に切断線を入れたテレビアニメ(『鉄腕アトム』)が登場したのが、何を隠そう宮崎が東映動画に入社し、『コクリコ坂から』の舞台とした1963年だったのである。

 戦後日本アニメーションの「伝統」が大きく揺らぎ、宮崎駿がアニメーターになった1963年を舞台にして、徳間書店=徳間康快をモデルにしたキャラクターにも支援を求めることで「滅びゆく遺物」を守ろうとする物語――『コクリコ坂から』は、このように整理することができる。すると、メルや俊が守ろうとするカルチェラタンが何を意味するかは自ずと明らかだろう。すでに述べたように、それは往年の「東映動画=漫画映画的なもの」の伝統なのだ。学生討論会で、メルが聞く中で俊は、このように叫ぶ。

「古くなったから壊すというなら、君たちの頭こそ打ち砕け! 古いものを壊すことは、過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか! 人が生きて死んでいった記憶を蔑ろにするということじゃないのか! 新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか!」

 つまり、この俊の言葉は、脚本を手がけ、息子の吾朗に新世代として監督を託した宮崎駿自身の切実な思いとして受け止めることができるのではないか。

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