ジム・ジャームッシュ作品はなぜ“とらえどころがない”? 『デッドマン』などからその作風を探る

 80年代後半から90年代にかけ、日本に“ミニシアターブーム”といわれる、小規模な映画館でかかるアートフィルムが人気を博す現象が到来した。それは、アメリカにおけるインディーズ映画のブームとも重なり、ガス・ヴァン・サント、クエンティン・タランティーノ、リチャード・リンクレイター、ケヴィン・スミス……多くのインディーズ出身の映画監督が、日本でも脚光を浴びることになった。そのなかでも、あくまでインディーズ作家として、マイペースに映画作品を撮り続けていったのが、ジム・ジャームッシュ監督だ。

 ここで紹介するのは、まさにブームのただなかにあった頃の、『ミステリー・トレイン』(1989年)、『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1991年)、『デッドマン』(1995年)の3作。ファッションとしても消費され、“分かったような分からないようなこと”をファンや評論家が述べたりしていた作品群である。いま、あらためてこれらが何だったのかというのを、ここで振り返ってみたい。

『ミステリー・トレイン』(c)Mystery Train, INC. 1989

 ジャームッシュ監督の映画における特徴は、“アートフィルムっぽさ”をともないながらも、とぼけたユーモアと、飄々とした雰囲気に包まれた、にくめない愛らしさがあるという点である。それがよく分かるのが、エルヴィス・プレスリーの同名曲をタイトルにした、『ミステリー・トレイン』だ。

 舞台となるのは、テネシー州の都市メンフィス。ブルースやロックンロールなどの音楽の街として知られ、エルヴィス・プレスリー、ジョニー・キャッシュ、ロイ・オービンソンらがここでレコーディングを行った地だ。そこへ列車でたどり着くのが、永瀬正敏と工藤夕貴が演じる、横浜からやってきた、どうやらロックの源流を訪ねようとしている観光客である。

『ミステリー・トレイン』(c)Mystery Train, INC. 1989

 工藤演じるミツコはプレスリーの邸宅のあるグレイスランドに行きたがり、永瀬演じるジュンは有名なミュージシャンたちがレコーディングを行ったサン・スタジオに行きたいと主張する。結局、ジュンが折れて二人はグレイスランドへ向けて、旅行ケースを携えたまま無闇に歩き出すが、なぜかサン・スタジオの方に到着してしまうというでたらめさ。そこでドラマチックな事態が起こるわけでもない。

 このような、目的意識の薄い旅行者の姿を映し出すという行為が、不思議な感覚を生みだす。通常、劇映画を楽しませるには、主人公に強い動機を設定し、乗り越えるべき課題を観客にも共有させる部分がなくてはならないのが普通だ。だが、ジュンとミツコには大きな葛藤もトラブルも起きず、二人はさして成長もないまま、この地を去っていくことになる。

 強い葛藤を生みだすことのない物語は、退屈だといわれることも多い。しかし、もしジャームッシュ作品を観て、そう思ったとしたら、ちょっと視点を変えてみてほしい。

『ミステリー・トレイン』(c)Mystery Train, INC. 1989

 例えば、この二人が旅行ケースを盗まれ、パスポートやミツコの大事にしているTシャツなどを取り返すような展開になったとする。そうすると、取り返すまでのあれこれの描写に、強い“意味”が発生することになる。そして、それらのシーンは目的を達成するための “過程”としての意味合いが強くなってしまうのだ。このとき、映画の様々なシーンは、見せ場の前の段取りに駄してしまう。

 ジュンが、安ホテルの部屋の中をしきりに写真に撮る場面がある。なぜそんなものを撮るのかとミツコに訊かれると、ジュンは、空港やホテルのような場所は忘れちゃうだろ、と答える。二人がグレイスランドにたどり着けなくてもいいように、旅というものは、何でもないその瞬間瞬間を楽しめばよいのだ。

『ミステリー・トレイン』(c)Mystery Train, INC. 1989

 本作は、同じメンフィスで同じ時間を共有する3組の主人公たちの3つのエピソードで構成されている。ローマから来た女性は、飛行機の都合でたまたまメンフィスに訪れることになる。彼女はホテルの部屋の中でプレスリーの幽霊を目撃するが、本作における幽霊との出会いが、彼女にもたらすことは何もない。プレスリー自身も、間違ってここに現れてしまったという、残念な気持ちで消えてゆくのだ。ミツコたちの方へ現れ、その出会いが後の日本のロックミュージックを変革することになれば、この怪現象には意味が生まれるだろう。しかし、本作はそういうものを描く話ではない。

 人生が、目的の駅へと進む列車に乗っている時間であるとすれば、それはただの過程だとしか感じられないかもしれない。だが、車窓から見えるものを目にして、風景を味わったり、何かを考えること自体を楽しめば、過程は過程でなくなり、その瞬間そのものが輝き出す。

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