『PSYCHO-PASS 3』トリガーを握る意味を考える 梓澤康一が一流のヴィランたる由縁

 一方、常守朱は須郷と好対照を成している。「#1 正義の天秤」において、連続爆破事件の犯人にドミネーターを向けた彼女は、その犯罪係数が300(「エリミネーターモード」による抹殺対象)を超過していることを見てとるや、トリガーを引くのをやめる。その後、朱は犯人と対峙し、語りかけ、犯罪係数が299(「パラライザーモード」による確保対象)に下がった時点でトリガーを引く。

 朱のこの行動に同調した振る舞いをするのが、第3期の主人公の一人・慎導灼である。彼は「#03 ヘラクレスとセイレーン」の中で、ドミネーターによる執行を止めた理由を廿六木に問い詰められ、「それを決めるのは人間であるべきです。そのためにドミネーターには引き金が付いてるんですから」と答える。彼は朱が示した“決定の遅延”という行動原理を確かに継承しているのである。

 実は『ドグラ・マグラ』の「電話交換手」の比喩の“元ネタ”は、アンリ・ベルクソンの『物質と記憶』(1896年)の中にある。ベルクソンが「イマージュ」の哲学を論じる中で示したのは、生物の機械的・物理的・化学的本性だった。生物の神経系統そのものは、機械的因果関係に基づく入力(知覚)と出力(運動)を行なっているだけであり、その意味で「中央電話局」以上の役割を果たしていない(アンリ・ベルクソン/杉山直樹訳『物質と記憶』、講談社学術文庫、2019年、p.39)。しかし神経系が複雑化していくにつれ、行動は「選択」という過程を経ることになる。ベルクソンは「躊躇」という言葉を用いている(同上、p.42)が、まさしく選択による行動の遅延こそが、人間の脳の特権的な本質なのである。

 「躊躇」という言葉は複雑難解なベルクソンの哲学体系のほんの一角を占めるに過ぎないが、それにもかかわらず広い射程を持つ概念だ。人間の大脳は複雑に進化していくことで、外界からの刺激に対して即時的な反射運動をするだけでなく、行動を選択し遅延させるようになった。そこにこそ主体的な思考や情念の萌芽がある。常守朱と慎導灼の振る舞いは、『PSYCHO-PASS』という作品の中にこうした哲学的な思索を導入している。

決定と身体性

 ところで、『PSYCHO-PASS』シリーズの特徴の一つに武闘派キャラクターの存在がある。例えば狡噛慎也、東金朔夜、炯・ミハイル・イグナトフなどだ。とりわけ第3期は、先行する2シリーズと比べ肉弾戦が圧倒的に多い。もちろんそれをビジュアル的な効果を狙った演出と見てとることもできるが、そこに表される“身体性”が『PSYCHO-PASS』のシリーズに通底するキーファクターであることも確かである。というのも、生体コンピュータとして人体から摘出され、剥き出しの脳と化したシビュラシステムにとって、身体性は重大な盲点の1つであるとも言えるからだ。

 本作における身体性の意味は、すでに第1期の槙島聖護の行動に示されていた。「#15 硫黄降る街」において、槙島はかの有名な「紙の本を買いなよ。電子書籍は味気ない」というセリフの後、「精神の調律」のための重要な要素として「紙に指で触れている感覚や、本をぺらぺらめくった時、瞬間的に脳の神経を刺激するもの」を挙げる。槙島は身体的感覚によって情報化社会に抗い、シビュラによる管理社会に抗うのである。

 故に、先述した“決定遅延”が“トリガーを引く”という身体的所作(の躊躇)として表されていることは決定的である。そもそもトリガーにかけられた指が躊躇するというシーンが、この作品だけに限らず、多くの映画やドラマにも頻出することは注目に値するだろう。銃のトリガーは、身体が決定を躊躇し、脳が逡巡するための象徴的なギミックなのだ。「#11 聖者の晩餐」では、朱の「刑事としての決断と行動」を問うべく槙島が猟銃のトリガーを引くよう誘うが、これもまた“決定”の身体性をよく表した名シーンと言えるだろう。

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