差別の連鎖を止めるためには 『ナイチンゲール』が見出す一筋の光

 本作の監督は、ジェニファー・ケント。彼女はラース・フォン・トリアー監督の『ドッグヴィル』(2003年)の助監督を務めることで映画人としてのキャリアをスタートしている。そう聞けば、この観る者の神経をざわつかせるような挑戦的な手法には納得する部分もある。だが、彼女の作家性はそれだけではない。その後、複数の監督作が世界で評価を受けるが、なかでも前作『ババドック~暗闇の魔物~』(2014年)は、育児への不安や、人間の心の深層にある悪意を、超現実的な恐怖として表現した傑作だ。そこには、天才的な映像センスと、優れた問題意識が備わっている。同じく家庭の不和を題材にして、日本でも話題となったアリ・アスター監督のホラー映画『ヘレディタリー/継承』(2018年)と並べて大勢が評価したとしたら、どちらが優れているかで意見が割れるだろう。

 このような大胆な手法と、人間の心理を深いところでとらえるまなざしがあってこそ、本作における地獄のようなシーンを表現することができたといえよう。だが、本作の暴力シーンは、ただ観客にインパクトを与えるためだけに見せるのではない。このような悪魔的な暴力は19世紀のオーストラリアではいくらでもあり得た事態であり、実際に人類の歴史のなかで何度も繰り返されてきたことだ。それをあからさまに表現することで、本作は暴力の本質が身体的なものだけでなく、人間の誇りを根底から奪おうとする卑劣なものであることを明らかにするのだ。

 クレアが暴力を受けた背景には、当時のイギリス人による囚人への蔑視はもとより、アイルランド人への偏見や女性への差別があった。だが本作がそれだけに終わらないのは、そんな差別によるおそろしい犯罪の被害者であるクレアにすら、差別心があることを描いているところだ。

 復讐のため、タスマニアを移動するホーキンスを追うクレアには、道案内をする先住民の助けが必要だった。ダンサーでもあるバイカリ・ガナンバルが演じる、先住民・ビリーがその役割を担うが、彼自身や彼の文化に対し、クレアは強い偏見を露わにする。人間扱いされてこなかった彼女が、さらに他の人間に偏見を向ける。このような差別の連鎖ともいえるような構図は、現代の社会にも根強く存在する。

 クレアばかりを責めるのは酷かもしれない。当時、イギリス人たち白人の入植者たちは、先住民たちを大勢殺害し、虐待を繰り返し、土地を奪ったのだ。先住民を人間とみなさず、害獣の感覚で狩りを行い、次々に銃殺していく。本作の舞台となったタスマニアでは、そのために土地に住んでいた民族そのものが消滅してしまったという。この事実は、紛れもなく人類史に残る犯罪行為である。入植した白人たち全体が、先住民にとっておそろしい脅威だったといえよう。

 オーストラリア政府は、2008年になって、やっと先住民に対して公式に謝罪を表明した。それまでヨーロッパにルーツを持つオーストラリア人は、権力や軍事力を背景に、自分たちの民族の歴史的な蛮行を、大筋では正当化してきたということだ。その歩みの遅さが示すように、現在でも先住民に対する差別や偏見は根強く存在する。

 自身もオーストラリアで生まれ育ったケント監督は、イギリス人とアイルランド人の間の差別、女性への差別を描き、さらにそれらの差別構造を含んだ白人社会全体が先住民を差別していたという、数層の差別世界を凝縮したかたちで表現していく。それは、彼女自身が描かねばならなかった切実なテーマだったことは、想像に難くない。

 クレアを助けるビリーは、途上で仲間たちが殺されていく姿を目にし、自分自身も何度も危険に遭い、土地を奪った殺戮者である白人たちに「悪魔め!」と責められ追い立てられていく。ビリーが、「ここは、俺たちの住む場所なのに……」と涙を見せる場面は、まさにオーストラリア先住民すべての心情を代弁する言葉だろう。

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