光永惇監督が語る、ラッパー・小林勝行のドキュメンタリー『寛解の連続』 「祈りがラップになる」

 1991年生まれの光永惇監督の処女作『寛解の連続』の自主上映が展開中だ。本作は、兵庫県神戸市出身のラッパー、小林勝行に光永監督が密着した「記憶の記録」である。小林勝行のセカンド・アルバム『かっつん』のメイキング・ドキュメンタリーの制作として出発するものの、完成した作品はいわゆる“ラッパーのリアルな日常”を捉えたヒップホップ・ムービーとは毛色が異なる。躁うつ病、障がい者介護、信仰する宗教ーーそんな小林勝行のリアルに肉迫した光永監督は、そこで何を感じ、どのように映画を作り上げていったのか。光永監督に話を聞いた。

「小林勝行の土着性みたいなものに惹かれたんです」

光永惇監督

ーーラッパーの小林勝行のドキュメンタリーを撮ろうと思ったきっかけは何だったんですか?

光永惇(以下、光永):大学在学中から、ピンク映画の下っ端をしていたんですけど、その現場がすごく大変だったんです。その状況を変えるためにも「自分の作品を作らないとダメだ」と思い詰めていました。そんなときにたまたま小林さんがTwitterで自分の映像を撮りたい人を探しているのを発見するんです。ここで他の奴に先を越されたら死んでも死に切れないくらいに思いこんで(笑)、すぐ連絡しました。それが、2014年8月のことです。小林勝行を撮りたいと考えたのは、曲が好きだったのもありますけど、Twitterを見ていて人間と作品が本当に地続きだと感じたのが大きいですね。

ーー小林勝行を最初どのように知り、どこに魅力を感じたんですか?

光永:高校生のころに『CONCRETE GREEN』(ラッパーのSEEDAとDJ ISSOが監修する日本のヒップホップのコンピレーション・シリーズ)に収録されている神戸薔薇尻(こうべばらけつ/小林勝行がかつて組んでいたグループの名前であり、小林勝行のファースト・アルバムのタイトル)を聴いたんです。ヒップホップのラッパーやグループの名前は横文字でカッコいい感じが多いじゃないですか。だから、名前からしてあきらかに異様だったし、「絶対いける」っていう曲名も異質だった。そんな小林勝行の表現から“小ヤンキー”っぽさを感じたというか、地元の友達に近いノリが曲から見えたのが大きいです。

ーー光永監督は東京の板橋区が地元ですね。周りは“小ヤンキー的環境”だったんですか?

光永:そうですね。筋金入りのめちゃくちゃ悪い奴はいなかったけど、大した動機もなく、微妙に悪いことをしている奴は多かったですね。「毎晩バイクをパクっては乗り回し、明け方には元の場所に戻す」みたいな、良心を捨てきれてない感じはありましたね。そういう、僕の周囲にあったような“小ヤンキー的環境”をこの人はルーツとして忘れずに歌っているんだなという信頼をはじめて聴いたときに感じて。公立中学校のエートスというか。たとえば、歌詞に出てくるのもシンナーだったり、車の車種もシーマだったりセルシオとかですよね。トピックスやワードまでアメリカナイズされた日本のヒップホップに疎外感を感じる部分が当時はあったので、小林勝行の土着性のようなものに惹かれたんです。

ーー映画の紹介文には、「自身(=小林勝行)の宿痾である躁うつ病や隔離病棟での体験、障がい者介護に従事する日常、信仰する宗教のことなどをテーマにした2ndアルバム『かっつん』を発表するまでに密着した、記憶の記録」と書かれています。『かっつん』のテーマになっているそれらが『寛解の連続』においても重要な要素になっています。それらのテーマはどの段階で意識し始めましたか?

光永:例えば、神戸薔薇尻名義で「蓮の花」(DJ NAPEY『FIRST CALL』収録)という曲があるんです。そういう曲名もそうですし、他の曲の歌詞にも仏教的な言及がけっこうある。だから仏教徒だろうなとは思っていました。だけど、具体的な宗派や、躁うつ病で入院していたこと、またそういう持病がセカンド・アルバムの主題になることは実際に会うまで知りませんでしたね。ただ、僕は小林勝行の仏教的な世界観をテーマにした「ある種たとえば」という曲にも食らっていたし、リリックから何らかの精神疾患を抱えていることも察してはいました。映画は『かっつん』のメイキング・ドキュメンタリーとして作るというのは最初から決めていたので、小林さんのそういう側面も撮ることになるだろうとは会う前から考えていました。

ーー光永監督は2016年11月から約1年間ほど神戸に移住して撮影しています。どういう撮影をできたときに映画としてカタチになる、という手ごたえを感じました?

光永:良いものが撮れた時期は集中しているんです。神戸に移住する前、2015年2月に小林さんの実家に1週間ほど泊まりこんだときに撮ったものが映画のメインの素材です。2階の小林さんの部屋で寝泊まりして、寝る間際までカメラを回していました。その期間は「良い映画ができるぞ」という手応えが自分のなかにもありました。映画のクライマックスで小林さんが自身の躁うつ病をどう捉えているかを語るシーンは、自分が撮っていることを忘れるくらい小林さんとの関係がシンクロした感覚がありました。そこにはすごく自信があって、そのシーンを使うことから逆算して編集もしました。

関連記事