世界中の人間に共通する課題 “なさそうでなかった”戦争映画『ジョジョ・ラビット』が描いたもの

 そして、同時代にドイツと同盟を結んでいた日本の多くの市民が、自分の民族は優秀な血統を持ち、イギリス人やアメリカ人を「鬼畜米英」と呼ぶことを教育され、中国人や朝鮮人を蔑視していたのと同じように、ジョジョもまた、ユダヤ人をはじめとして、敵勢力についた国の人々を、栄えある「アーリア人」である自分と比べ、劣悪で邪悪な存在だと思い込まされているのである。

 このようなファシズムの熱狂による思い込みが、本作では非常に分かりやすく戯画化されたかたちで表現される。それが、ワイティティ監督自身が演じる、ジョジョの“想像上の友達”、愉快なヒトラーおじさんである。

 実際の演説などから総合された、ジョジョ少年の想像したヒトラーは、明るい態度でいつでもフレンドリーに接してくれる一番の親友だ。彼は、ヒトラーの思想や主張を繰り返し投げかけ、それがジョジョの行動の規範となっている。自分自身の考えではなく、他人の示した理想に対して盲目的に従って生きていく……これは、一種の洗脳状態にあるといえるだろう。スカーレット・ヨハンソンが演じる、進歩的な思想を持つジョジョの母親は、あのかわいい息子が、なぜ差別的で身勝手なナチの思想にあれほどかぶれているのかを、残念に思いながら日々を送っている。

 そんな主人公が、果たして主人公足り得るのかという部分を、本作はしっかりと処理している。ジョジョはヒトラー・ユーゲントの教官に「ウサギを殺せ」と強要されるが、どうしても殺せず、命令に背いて逃がそうとするのである。

 ナチスドイツの兵士たちは、無抵抗のユダヤ人たちを大勢虐殺した。少し前までは隣人だった人々を、少し前まで普通の市民だった人々が殺したのだ。しかし、ジョジョはウサギを殺さなかった。表面的な考え方はともかくとしても、根っこの部分で、そのような残虐なことができる人間ではないことを、観客に証明してみせたのである。

 そんなジョジョは、ナチスの手を逃れて隠し部屋の中に住んでいる、アンネ・フランクのイメージをまとったユダヤ人少女エルサと出会うことで、認識を改め始める。彼女はユダヤ人なのに、亡くなった姉にそっくりだったのだ。

 ユダヤ人はヨーロッパ、ことにドイツにおいて歴史的に偏見や差別にさらされてきたこともある存在だが、その民族的な定義は主にユダヤ教を信じているかどうかによる。文化による違いはあっても、そこに人種としての決定的な違いや優劣を見出すのは困難なのである。にも関わらずヒトラーは、国を衰退させるユダヤ人は民族ごと殺害するしかないという、過激なカルト思想に陥り、歴史的な凶行へと国家を導いていった。

 本作では、ソ連軍がベルリンに侵攻している最中、もはやユダヤ人はどうでもよく、ロシア人こそが悪魔的だとされる思想が現れ、そのように都合よくコロコロと変わる民族差別が、いかに非科学的で、庶民を目的に誘導する政治的なものなのかという事実が示唆されている。

 そして、サム・ロックウェル演じる将兵の運命が暗示していたように、ナチスドイツそのものが暴力にさらされる描写をすることで、作品内で価値観の転換が行われていたことが興味深い。映画では描かれないが、ベルリン陥落においては、ソ連軍の将兵による性的暴行によって、多くのドイツ人女性が被害に遭い、死亡したことも歴史的な事実だ。戦争における犯罪に手を染めてきたのは、ナチスドイツだけではないのだ。

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