『ボーダー 二つの世界』と『ジョーカー』の共通項とは アウトサイダーを描く作品が映し出す現実

 彼女は本心から自分の居場所を見つけられないでいる……いわばアイデンティティを見失った存在なのだ。ティーナが森のなかで動物たちと交流するシーンが何度か挿しこまれるが、それは彼女が人間社会で疎外感を抱いていることと関係しているだろう。そんな彼女は、ヴォーレと出会うことで変わっていく。ティーナと似た容貌のヴォーレははじめて親近感を抱ける相手であり、彼女はそのことで自らのアイデンティティを発見していくことになるのだ。その象徴とも言えるのが、ティーナとヴォーレが森のなかを全裸で走るシーンだ。その瑞々しい解放感は、自身のアイデンティティを発見し、また選択した喜びが表現されているように見える。

 容貌のせいで疎外感を感じ差別を受けるというのは、人種問題と関係しているだろう。また、本作はある部分で『ぼくのエリ』を思わせるクィア的な要素を含んでもいる。ふたりはあらゆる側面においてマイノリティであり、そのアウトサイダー性は様々なところに及んでいるのである。ティーナはそこまで生活に困窮しているようには見えないが、いっぽうのヴォーレは一箇所に安住しておらず、かなり不安定な生活を強いられているようだ。これは現在のヨーロッパにおける移民のメタファーにも思えるし、貧困問題にも肉薄しているだろう。人種問題、ジェンダー、格差、移民、貧困……この映画が「現実社会」にリーチする要素は非常に多い。そして、先述した森を走るシーンは絶対的なアウトサイダーであるふたりの存在を、社会から隔絶された場所(森=自然)でささやかに祝福するようだ。

 けれども映画は、そう簡単に気持ち良い決着を見せることはない。先述したように児童ポルノのモチーフが本作には入っているが、中盤から本格的にそれがプロットに入ってくることになる。これは、たとえばスティーグ・ラーソンの<ミレニアム三部作>に代表されるような北欧ノワールと近接するものでもある。ではなぜ、原作にはあまりなかったそのノワールの要素が取り入れられたのだろうと思って見ていると、やがてヴォーレが社会に対してある「復讐」を画策していることがわかってくる。それは何も、暴動をいますぐ起こすことではない。そうではなく、すでに現実の社会にある「歪み」をちょっと刺激するだけでいいというのである。これは人間というものがいかに愚かな存在であるかを突きつけるもので、あまりに重い。

 そして、自らのアイデンティティを選び取ったティーナが「復讐」に参加するのか否か。そこが本作の焦点となる。究極のアウトサイダーであるティーナは、自らを虐げてきたこの社会にどのように抵抗するのか。どちらにしても、本作が観客に考えさせるテーマはこの社会のシリアスな問題そのものであり、だから映画の余韻は苦い。

 『ジョーカー』はむしろある種その「復讐」への欲望を解放する映画にも思える。ホアキン・フェニックス演じるアーサーはあらゆる面でこの世から見捨てられた男で、彼がジョーカーという善悪の境界を見失った「狂人」になってしまうのは彼を救う者やシステムが一切なかったからに他ならない。そして、彼に触発されてしまった「下層」の人間たちが、社会への復讐を果たそうと蜂起するのである。舞台は80年代辺りのゴッサム・シティということになっているが、インターネットという要素はないものの、2010年代の都市のように見えてくる。

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