菊地成孔の映画関税撤廃 第11回
菊地成孔の『月極オトコトモダチ』評:パロディぎりぎりの引用は罠だ。とんでもないオチが音楽恋愛映画に(笑)
エピローグと音楽について
それによって、具体的な恋愛模様がどうやって収束するかは、実のところどうでも良い(ように見える)前述のオチの斬新さと古典性の融合が、全てを吹き飛ばす。
俳優たちの画角を超えたパセティックな名演と、若き女性監督(恐らく非音楽家。つまり視点は主人公の地点にある)の驚異的なアイデア(恐らく、書いた本人も、その凄さを十全に理解していないのではないかと思われる)。この2者の圧倒的な力に比べると、残念ながら音楽それ自体は弱い。というか、これで音楽にも高い強度(配信で大ヒットを記録するような)があったら、東京国際映画祭 日本映画スプラッシュ部門ではなく、日本アカデミー賞最優秀作品賞ノミニーであろう。
入江陽、BOMI、そして長谷川白紙の仕事は、私感だが、この作品の分というか度というか、そういうものを守っている。すなわち、「ちゃんとインディーに見えるように」というミッションの、無意識的設定があるのではないかと思う。飛ぶ鳥落とす勢いの長谷川白紙の「主題歌編曲」は、前述の通り、本作の対外プロモーション上の推しポイントであるが、氏の作品を非常に高く評価する(しばらくの間だが、自分の生徒だったから。などというセコい理由ではなく)筆者も、「いやあ、これは、、、ちょーっと、やっちゃったな長谷川くん」としかコメントできない。
氏の作品は、楽音(調律された、楽器が出す、楽譜にかける音)とノイズやSEが、等量ほどに混在する、圧倒的な情報過多なのに関わらず自然主義に聴こえる。という、新たなテクノエコロジスティックなスタイルの完成という意味で、日本のポップス界に明らかな画期を示す作品だと評価しているが、ここでは何と、(作中のサウンド範囲に合わせてか)ドラムとベース以外はほとんどエレクトリックピアノだけしか使っていない。
ピアノは調律の第一代弁者であり、どれだけ頑張っても、擬似ノイズ、擬似SEは出せても、真のノイズもSEも出せない。電化されようと、ピアノがメロディに対してできることは、リコードつまり和製の付け替えのみである。氏にとっても大胆な試みだったかもしれない、「自分の世界観を楽音だけで表現する。という編曲作業」という英断の結果は、残念ながら青臭いこね回しにしか聴こえない(通常の作曲作業中に、MIDIでシンセ相手に打ち込んだMIDI情報をピアノにコンバートしたのか、手で響きを確認しながら弾いたのかは判断できなかったが)。
しかし、そのことさえも、ややもするとウエルメイドすぎて、地上波のテレビドラマに見えてしまう可能性すら孕んだ本作への「インディー感」(それは非常に高い価値だ)キープのための、神の見えざるミッションだったのかも知れない。優れた俳優たちは若手なれど既にキャリアはあり、それは続くだろう。監督はこの水準が安定的に叩き出せれば、オーヴァーグラウンダーになるだろう。
そして、音楽家たちは勿論このままで良いのである。ある意味で今、映画以上に、オーヴァーグラウンド感=仕事感=普通感=既聴感から離れなければならないのがポップ・ミュージックであるかも知れない世の中なのである。入江陽が達者で職人的なOSTを書き、BOMIがJUJUやMISIAのような曲を書き、長谷川白紙がピアノ一本で、斬新で完成された新しい響きを出すのは、最も愛のある言い方をすれば、そんなものはディストピアでしかないし、最も皮肉な言い方をすれば、それはまだ15年先の話であろう。
追記)
のちに、YouTubeに上がったデータ販売版(?)を聞いたら、上映版よりもシンセがやや多用されており、リズム分割とコード(増設されたキメ)が整理されていて、単純に完成度が上がっていた、というより、新機軸としては成功、というレヴェルにあった。映画音楽に携わる者として、様々な事情があったのだろうと想像するか、想像は一切割愛し、長谷川氏の名誉のためにも追記する。
(文=菊地成孔)
■公開情報
『月極オトコトモダチ』
新宿武蔵野館、アップリンク吉祥寺、イオンシネマ板橋ほかにて公開中
出演:徳永えり、橋本淳、芦那すみれ、野崎智子、師岡広明、三森麻美、山田佳奈
監督・脚本:穐山茉由
音楽:入江陽
劇中歌・主題歌:BOMI
配給:SPOTTED PRODUCTIONS
製作:「月極オトコトモダチ」製作委員会
2018/日本/78分/カラー/ヨーロピアン・ビスタ/STEREO
(c)2019「月極オトコトモダチ」製作委員会
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