【ネタバレあり】『キャプテン・マーベル』はなぜ分かりやすい直球のヒーロー映画になったのか?

 だが、本作にはどうしてもそれを描かねばならないという事情も存在する。そして、それこそが本作の“核”となるものなのだ。このことが理解できるかどうかで、評価はかなり違ってくるはずである。その事情とは、一人の女性として物心ついたときから差別されるという、世の中の理不尽な力と戦い続けてきた、主人公ヴァースの姿を描く必要があったということだ。ミステリー仕立てにしたのは、それをなんとか見てもらおうという工夫であろう。

 本作の背景となるのが、銀河を舞台にした、クリー人とスクラル人との星間戦争である。ヴァースはクリー人のエリート特殊部隊“スターフォース”の一員として、スクラル人に打撃を与えるミッションに従事していた。そんなヴァースがジュード・ロウ演じる男の上官と格闘訓練するシーンは興味深い。格闘術においては上官が勝り、訓練でヴァースは敗北を繰り返している。しかし、彼女は拳から圧倒的なパワーを放出するという技を持っていた。それを使えば、格闘などするまでもなく一瞬で上官を制圧できるのである。にも関わらず、彼女はその力を封印しながら戦い、戦闘能力において彼女をはるかに下回る上官に説教を受ける。

 さらにヴァースは、「感情を抑制しろ」とまで言われる。これは、節度ある指導のように見えて、「疑問を持たず俺の命令に従っていろ」ということを、体裁良く伝えているだけのようにも感じられる。そしてその事実に、彼女はまだ気づけていない。このような、何かもっともらしい理由をつけて女性の上に立とうとする男性という構図は、現実にもよく見られる。それら事例があまりにも無数にあり、既存の文化とも密接に絡み合っているために、女性の側も、なんとなくそういうものだと納得している場合がある。

 ヴァースの深層に残された記憶の断片が明らかになるにつれ、彼女がそんな経験を少女の頃から何度も何度もしてきたことが分かってくる。彼女は男性の多い環境の遊びやスポーツ、そして空軍パイロットの仕事に挑戦し、少しでも遅れをとると、「やっぱり女だ」、「でしゃばるんじゃない」と言われ続けてきたのだ。だが、その度に彼女は奮起し、「自分にはできる」と、何度も何度も立ち上がってきた。そして努力を繰り返すことで、周囲には無理だと言われ続けてきただろう、“空を飛ぶ”という夢を勝ち取ることになる。その時点で彼女はすでにヒーローになっているのだ。

 そしてその姿は、社会における“女性”の歴史の象徴でもある。人種差別同様、女性はこれまであらゆる場面で、筋の通らない理不尽な理由によって抑えつけられていた。男性があらゆる分野でのびのびと活躍するなかで、サポートに徹したり、一歩引いて男性を立てるような役割を強いられてきた。しかし、そんな現実にあきらめず抵抗することで、一つひとつ、女性は権利をつかみ取ってきたことも確かだ。だが人種差別と同じく、性差別の解消はまだ道半ばである。

 そんな偏見・差別は、本作では性差別以外にも描かれる。90年代を舞台にした物語のなかで、多くの店舗数があったレンタルビデオ店が登場する。そこで描かれる、アーノルド・シュワルツェネッガー主演のアクション大作『トゥルーライズ』の立て看板が破壊される場面が印象深い。本作の監督が述べるように、ここでの描写は、『トゥルーライズ』を批判する意図ではなく、尊敬する意味で使われているようだ。とはいえ、『トゥルーライズ』は、中東のテロリストを悪役にしたことで、アラブ系のアメリカ人のなかで批判が起こった経緯がある作品でもある。

 一方、『キャプテン・マーベル』では、はじめは危険なテロリストだと思っていた種族が、じつは難民だったことが明らかになる。そして、正義だと信じていた戦争が、じつは憎悪を煽る侵略行為だったことにも気づく。偏見を助長することで起きる人種差別も女性差別も、それがはびこる裏では、誰かが不当に利益を得ている。このシステムは根本的なところでつながっているのだ。

 女性を抑えつけようとする男性の心理というのは、奇しくも本作が世に出ることでも証明されてしまう。映画の評判をユーザーの支持によって数値化するアメリカのウェブサイトにおいて、本作は大勢の不当な嫌がらせによって、低評価をつけられるという事態に陥ったのだ。

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