宮崎駿監督作品からの影響も? 『移動都市/モータル・エンジン』に隠されたテーマ
蒸気機関の発明が生んだ「産業革命」によって、大量生産、大量消費の時代が始まったのは、他ならぬイギリスからである。ここから“資本家”と“労働者”という、新たな格差が生まれる。持つ者はよりリッチに、持たざる者はより困窮を極める。金や権力を持つ人々は、さらに力と富を獲得するため、新たな土地や資源・人員を獲得し、生産物を消費させようと、他国を侵略し、植民地を増やしていく。
本作は、イギリスの作家・フィリップ・リーヴによる、「ハングリー・シティ・クロニクルズ」と呼ばれるSFファンタジー小説『移動都市』シリーズを映画化している。このような、世界そのものを創造していく作品では、作者の社会観や歴史感、政治理念が色濃く反映するものだ。本作で“ロンドン”という狂気をはらんだ移動都市が象徴し、同時に批判しているのは、力を背景にした人間の飽くなき欲望が侵略と収奪を繰り返す「帝国主義」についてであろう。暴力によって他国の人々の文化や人権を侵害し、自分たちの文化やシステムのなかに組み込んでいく。
このような行為が地球規模のスケールで行われだしたのが、イギリス産業革命以降なのだ。だから本作における、都市が都市を喰らうという様子や、内部の仕組みを表現した映像は、そのような生産・消費・収奪がそのまま視覚化されたものであり、帝国主義的な理念をきわめて分かりやすく表現したものだといえるだろう。
とはいえ、これは過去の歴史の戯画化のみに収まる話ではない。実際、現在の世界でも、戦争によって利益を収奪する行為は続いているし、企業が企業を合併買収する“M&A”や、膨張し続ける多国籍企業の存在は、新たな帝国主義のかたちであるだろう。本来、企業が存続する目的は「公益」であることが建前である。しかし現実的には事業規模の拡大によって、しばしば利益を追求し続けるだけの存在に堕落するケースは枚挙にいとまがない。
そんな状況が延々続いたらどうなるのか。本作で触れられているのが、「社会ダーウィニズム」という考え方だ。ダーウィンの「進化論」のように、社会も自然淘汰のうちにあるべき姿になっていくという内容である。だが、本作がその結果として大量の奴隷労働を必要としたように、大規模な経済活動は往々にして、格差の構造を助長し固定化させてしまう面がある。
人間が、力と富を独占し、どこまでも豊かになろうとする欲望を持つ存在だとすれば、自然にまかせると、その規模が巨大化する過程において、どこかで持続が不可能になることは目に見えている。だとすれば、人類そのものに致命的な欠陥があるのではないかという気すらしてくる。
だが本作は、人類のもう一つの可能性を描く。それが移動をしない“静止都市”を守ろうとする「反帝国主義」の理念を持つ人々の存在だ。劇中の彼らは、様々な人種・価値観を受け入れ、他者を受け入れようとする寛容な姿勢を見せる。