山戸結希監督×矢田部吉彦『21世紀の女の子』対談 日本における女性監督の現状と未来

矢田部「『21世紀の女の子』は、もっと独自の光の当たり方をしてほしかった」

矢田部:ここ数年、LGBTQが主題の作品がすごく増えていますよね。それこそアカデミー賞を『ムーンライト』が獲るくらいまでに、世界中で大きな動きになっていると思いますし、少なくとも映画を観る人の間では、理解が進んでいるとは思うんです。『アゲインスト8』もそのひとつかもしれませんが、勇気を出してそういった作品を描いていこうという流れに背中を押される部分もあるんでしょうか?

山戸:もちろん、勇気という意味でも、そうだと思いますし、今回の『21世紀の女の子』に参加してくださった同世代の監督さんたちは、意外性を持って受け入れるというよりは、皆さん、純粋に「是非やりたいです」と即答くださった方もとても多く、創作する姿勢としては自然なこととして受け入れてらっしゃったという印象でした。矢田部さんがご指摘くださった#MeToo運動など、ある異議申し立ての中で自由を獲得してきた西洋の流れそれ自体とは違う道筋も、同時に、この地では作っていかなければいけない。小説家の川上未映子さんが、『早稲田文学増刊 女性号』を作られた際、「あなたたち女性は何に怒っているのか」と尋ねられたことがあったそうで、それに対する疑問を書かれていて、興味深く拝読しました。つまり、女性たちが集まった時に、ネガティブなエネルギーの前提が必須条件にされるのは、なぜなのだろうと。この実感は自分自身においても深く、「映画界に対する異議申し立て」よりもずっと早く、「もう既に、一本の映画を作り終えってしまった」ということの素晴らしさを、分かち合ってゆきたいのです。それは、とてもポジティブには、「作品を作り出す歓び」とも言い替えられます。今回は関わってくださる女優さんたちも、作品を生み出す楽しさを大切に、高いテンションを持ってくださっていました。オーディションと公募に寄せられた大量の応募もそうですし、確かな渇望を、純粋に感じました。それが社会的な潮流と合致するのであれば、それは有り難いことである一方、東洋で女性が自己実現するのには、カウンターカルチャーで終わった気になってはならないということを熟慮し、アゲインストだけでは届かない領域への、切実な思考が求められていると思います。

矢田部:なるほど。僕がビックリしたのは、参加された全15名の監督に、全くの無名という人がほとんどいないこと。どこかしらで注目され始めていて、「さあこれからいくぞ」という人たちばかりですよね。偉そうな言い方になってしまいますけど、今これだけの人を集められるのは、本当に大したもんだなと。やっぱりそれは山戸さんの企画の魅力ですし、山戸さん自身の魅力だと思います。一方で、山戸監督はプロデューサーという立場もあるわけじゃないですか。他の監督の作品の脚本は、事前に読むわけですか?

山戸:基本的に、読ませていただいた脚本や上がった編集に、細かい意見をお伝えさせていただいた方もいれば、一切そのままでいかれた方もいらっしゃいます。どうあっても、それぞれの監督さんの個的な力にスポットが当たることを、最も望んでいました。今回、皆さんには「自分自身のセクシャリティ、あるいはジェンダーがゆらいだ瞬間が映っていること」というテーマを先にお伝えさせていただいていますが、全員がセクシャリティ、あるいはジェンダーについて撮ることで、それが批評の中心にならないことを逆に目指していました。例えば、日本で監督をしている女性の作品は、褒め言葉として、必ず「女性監督ならではの感性」と書かれる現状があります。それは母数におけるマイノリティを前提にしているので。でも例えば、それがマジョリティとして15人全員がいる場合に、個々人に対して、「女性監督ならではの感性」と評されることは一切ないという利点があります。セクシャリティやジェンダーに前提を意識的に置くことで、それ以外の“個としての資質”が批評の対象になるようにという思いで、今回のテーマと枠組みをセッティングしています。なので当然ですが、セクシャリティやジェンダーについて、「もっと掘り下げてください」みたいな要望はなく、今回参加していただいた他の14名の監督は、私自身がその監督の新作を観たいという原動力で声をかけさせていただいたんです。そして、コンペティティブにはしたくなかったので、そうはならないように、それぞれの魅力が最高値で輝くようにしようと。手を取り合って優劣が出るのではなく、それぞれの色がそれぞれの色のままで混ざり合って新しい色になるような、そういう作品にしたいという想いで、それぞれの作品の監督に、想いを伝えさせていただきました。 

矢田部:面白いですね。セクシャリティやジェンダーというのをあえて最初に言ってしまうことで、そのキーワードを無効化する。先手を打つことで、その先を観てもらえるようにするということですよね。「女性監督ならではの感性」はクリシェの罠で、僕もつい使ってしまうので自戒の念を込めてしまいます。

山戸:いつか、きっと100年後には、「男性監督ならではの感性」という言葉が生まれるのかもしれません。プレーヤーの数が変わることで、きっとゲームのルールが変わっていって、言葉の文法も変わっていくと思うので。最初から正解の言葉にたどり着けるわけはないし、1作目から完璧な作品を撮られないのと同じように、語る側の方と作る側の私たちで、一緒に手を取り合って両輪で進みながら、新しい映画を、新しい言葉を獲得していけたら素敵だなと考えてます。実は、『21世紀の女の子』の上映において、東京国際映画祭さんでの「日本映画スプラッシュ部門特別上映」を、初めてご創設いただきました。これについて、今回はなぜ「特別上映」としていただいたんでしょうか?

矢田部:これはもう、まず最初に特別だと本当に思ったので。他の作品と賞を競うタイプの作品でもないですし、今後公開される作品をいち早く観てもらう特別招待作品ともタイプが異なるし、埋もれてしまうと思ったんですよね。『21世紀の女の子』は、もっと独自の光の当たり方をしてほしかった。世代としては新進気鋭の監督たちですし、本当にこれからの飛躍がさらに期待される方々なので、日本映画スプラッシュ部門の中の特別上映とすると、その位置付けもはっきりするし、特別感も出るし、他からちゃんと切り離されてピンで目立てる、ということで、特別上映にしました。

山戸:選考の過程に、そのような意志を込めていただいたこと、大変光栄に思います。

矢田部:それと、先ほどお話しした#MeTooにしても、カンヌでの動きにしても、ちょっと日本が静かだなという気がするんですよね。僕はあまりそういうタイプではないんですけど、それにしてもあまりにも日本には上陸していないような気がしていて。なので、東京国際映画祭できちんとその輪をつなぐというか、今年こういうことがちゃんと起こっているじゃないか、みんなもう少し意識してやりましょうよということで、山戸さんが本当にいいきっかけをくださったと思います。僕自身、男性として、#MeToo運動をはじめセクシャリティやジェンダーなどの問題に、どういうスタンスで関わっていいのかあまり分かっていなかったんです。踏み込みたい気もするけれど、尻込みもする、みたいな。今回の話はすごく重要だなとは思いつつも、例えばトークの司会を僕がやっていいのかなとか、やっぱり司会は女性を立てたほうがいいんじゃないかなとか、一瞬思ったりもしたんですよ。だけど、それって余計な気遣いだし、たぶんそういうことではないなと考え直したんです。今年、LGBTの話を扱ったあるドキュメンタリーを観たのですが、1人の女性が「こういう話は女性同士だけでやっているとうざがられるだけで終わっちゃうから、男性を味方に引き込まないと先に進まない」「ちゃんと男性を巻き込まないと」みたいなことを言っていて、「あ、そうか」と。それを聞いて、この企画の司会をすることに一切の迷いがなくなったんです。すごい巻き込まれようと思って。

山戸:素晴らしい姿勢ですね。実は、『21世紀の女の子』が企画発表された際には、女性からの反響がとても感動的だったのですが、男性の映画関係者や企業の方たちから、応援したい、支援したいというメッセージも、たくさん届けていただきました。“過去に対するアゲインストではなく、未来の歓びに対する新しいアプローチを”というテーゼが根底にあったので、そうした前向きな反応も、大変励みになりました。例えば、“怒れる女神たち”のような古い神話もあるけれど、女の人たちが一緒に手を取り合った瞬間に生まれる、新しい花が咲き誇るような、美しい神話を語りたいという感覚の方が、ずっと鮮明です。そうした部分で共鳴してくださる方たちと、一緒に物語を作ってゆけること。そこに、勝機があると思っているんです。未来への希望という意味では、女性と男性というのは、全く境界がない。あるいは過去を思う時、母親や父親への思いは、性別を超えた普遍的な領域がある。そして、それは実際に子供を持たないのだとしても、“未来の母親”や“未来の父親”という、過去と未来の、架け橋としての可能世界を想定してみた時に、生まれるアプローチがあると考えたら、希望を共有できる範囲は、決して狭くない。今回の作品をきっかけに、固有でありながらも、普遍的な視点が生まれてゆく流れを作り出せたらと、強く願っています。

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