『獣になれない私たち』のテーマは近代文学にも繋がる? その凄さの本質を徹底解剖

近代文学としての『けもなれ』

 このどっちつかずの曖昧な世界を描くのは、もはや「近代文学」の領域となる。19世紀末のフランスでは、人間の真実を描くため、美化せずにそのままの姿を描く、エミール・ゾラなどによる「自然主義文学」が起こったが、その後日本でも、人間を複雑に描いていく「近代文学」が発生する。そこで描かれる人間は、善の象徴とも悪の象徴ともならず、勧善懲悪のドラマや分かりやすいカタルシスが生まれ得ない。しかし、だからこそ現実に近い世界が描けるのである。

 近代文学については、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』(1918年)が説明しやすい。お釈迦様が極楽から糸を垂らし、生前に多くの罪を犯しながら、蜘蛛の命を助けたという、たった一つの善行をしたカンダタという男を、地獄から救い出そうとするのが、この物語だ。カンダタは結局、自分だけが助かろうとして他人を蹴落とそうとしたために、再び地獄へと落下してしまう。

 これは単なる教訓話にとどまらない。カンダタという男はひどい人間だが、蜘蛛を助けたことがあるように、まったく完全な悪人というわけではない。だからこそお釈迦様が助けようとするわけだが、極楽に行けるような存在でもないのである。つまり、蜘蛛の糸につかまりながら、地獄でも極楽でもない中間の場所にいるのが、人間の存在する位置ということになるはずだ。そして、それを描写するのが近代文学なのである。

 本作では、それが「5tap」という、日替わりで5種類のビールを提供するバーによって象徴される。晶、恒星、京谷、呉羽、そして京谷の元恋人である、黒木華が演じる「朱里(しゅり)」を加えた5人。彼女たちが、善とも言い切れず、悪とも言い切れない、つまり、日替わりで提供されるビールの雑味のように、日々変化しながら人間模様を見せていくのが本作である。『けもなれ』はその意味で、本質的に近代文学的だということができるのだ。

 背景になるのは、日本社会における様々な問題だ。男の浮気の重さと、女性の浮気の重さが違うという理不尽さに代表されるような性差別問題や、東日本大震災後の福島の問題、介護問題、雇用問題、ブラック企業問題、ハラスメントの問題などなど、見本市のように数々の膿(うみ)が噴出してくる。このようなシリアスで、すぐに答えを出せない問題に、主人公たち5人は直面する。晶のストレスの原因となる京谷も苦しんでいるし、ビールを飲みながら傍若無人に嫌味を言い放つ恒星ですら苦しんでいるのだ。このような厳しい現実に、どう対処すればいいのか。

日常を壊す爆弾を持つこと

 そこで、物語のなかで面白い要素が出てくる。映画作品『太陽を盗んだ男』(1979年)というタイトルである。沢田研二演じる中学教師が、プルトニウムを盗み出して自前で原子爆弾を作り、日本政府を脅迫するという物語だ。

 原子爆弾は経済社会の中枢を破壊する威力を持っているが、『けもなれ』では、例えば晶がいつも携帯する辞表がそれにあたる。彼女は、どうしても我慢ができなくなったとき、即座にその辞表を社長の目の前に突きつけるため、肌身はなさず持っているのだ。それはまさに彼女にとって「日常を壊す爆弾」と呼べる最終兵器である。この爆弾を持つことにより、彼女は正気を保っていられるのである。

 近代文学における「爆弾」といえば、梶井基次郎の代表作である短編『檸檬(れもん)』(1925年)を、どうしても思い出してしまう。これは、病気や借金という現実や、陰鬱な気持ちを抱えた人物が、果物屋で一つのレモンを購入し、それを握っていることで幸福な気持ちを味わうという物語である。なぜ幸福なのかは、その後レモンを爆弾に見立て、本屋に置いて去っていくラストによって理解できる。つまり、ここでのレモンとは彼にとって、日常を壊す爆弾だったということだ。

 我々は、いつでも日常を放棄してやるぞという、ささやかなテロリストを気取ることで、過酷な日常の奴隷であることから目を背けることができる。しかし、本当に爆弾を投げつけたらどうなるのだろうか。結局、それは大した効果などなく、自分だけが被害を受けてしまうのではないか。投げたい、投げられない。この葛藤もまた近代文学的テーマだ。

関連記事