イーライ・ロス監督のパーソナリティとも合致 『ルイスと不思議の時計』のメッセージ
原作の雰囲気もそうだが、本作は不気味な屋敷や墓地、死者を甦らせる禁断の降霊術など、子ども向けながらもホラーな要素がいくつも登場する。おそらくイーライ・ロス監督が抜擢されたのは、このおどろおどろしい怖さのテイストが欲しかったためであろう。たしかに、不気味な人形が大勢で屋敷の中をうろうろしているシーンなどは、子ども向けの作品としては少しやり過ぎな感があり、夢に出てきそうな怖ろしさがあった。
スティーヴン・スピルバーグのアンブリン・エンターテインメントが本作の製作に加わっているが、ここでは、『E.T.』や『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』などスピルバーグ監督が得意とするような、もったいぶったサスペンス演出はあまり見られない。ルイスが謎を探求するエピソードや、墓地での場面などは、もっとじっくりと長い時間をかけた演出が欲しいと思ってしまうし、少年がやって来たミシガン州の町の描写が少なく、屋敷を中心として屋内シーンが多いので、その時代の雰囲気やスケール感を与えられないのは確かである。むしろその点でスピルバーグの手法を受け継いでいるのは、『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』(2017年)のような作品であろう。
しかし、そんな従来の大規模作品のような演出をとらず、あえて低予算映画のように限られた場面で構成されていることが、ある種の異様さやスピード感を与えているようにも思われる。演出の食い足らなさは、反面で現代的な軽さを生み出し、スケール感の無さは少年の近視眼的世界観を強調する効果があるのではないだろうか。それが本作の大きな特徴となっているように感じられるのだ。
だがそれよりも、もっと重要だと思われるのは、ここで描かれるテーマについてである。ルイス少年は、TVドラマの主人公の不屈の男ぶりに憧れ、彼と同じようにゴーグルをいつも身につけているが、転校した学校では、そんな変わった個性や、運動が苦手なことから仲間外れにされる孤独な境遇にあった。そんなルイスにも気さくに話しかけてくれるのは、タービーという同級生だった。だが彼は学内の選挙に勝つため、孤独な存在であるルイスに優しくしていたことが次第に分かってくる。
「学校に馴染みたかったら、そのゴーグルは付けない方がいい」というタービーのアドバイスが象徴しているように、彼の行動の多くは、自分の学校の中の立場を良くするなど、言い換えれば「社会的地位」を得ることを目的としたものだ。しかし、これは責められるべき姿勢というほどではないだろう。なぜなら、社会のなかの多くの人間がそれを目的として生きているからである。だから、個性を殺した方が都合が良いと判断すれば、大多数の行動に従って集団に順応しようとしてしまう。
しかし社会のなかには、そのような生き方を選ばず、ときに「変わり者」だと後ろ指を指されたり、肩身が狭い思いをしたとしても、自分が興味を持つ世界を追求したいと考え行動する人たちもいる。それを体現しているのがジョナサン伯父さんなのだ。同じくジャック・ブラックが演じた『スクール・オブ・ロック』の破壊的教師の役がそうであったように、ジョナサンは「この屋敷では、いつ寝て起きようが自由だ」と言ったり、「ご飯の前にクッキー食べる方が美味しいだろ」と、既存の常識や制約にとらわれず、自分の気持ちのままに行動する生き方があるのだということをルイスに教える。
だが、その生き方には負の側面も大きい。若い頃のジョナサンは、自分の心のままに魔法を研究することを選んだのはいいものの、父親(ルイスの祖父)からそれを強く反対されたことで家出をして、それ以来、家族に顔を合わせず、葬式にも顔を出さなかったのだ。常識という制約のある社会で、自分の我を通し自由に生きるということは、孤独を背負うということでもある。その境遇は、ルイス自身も学校生活という集団行動のなかで味わうことになる。