現代を生きる私たちは何を直視すべきか? 『検察側の罪人』が投げかけた問いを考える

最上が抱える矛盾とその恐ろしさ

 弓岡(大倉孝二)は自分の手で殺したものの、最上は松倉(酒向芳)には直接裁きを加えず、あくまで“法で裁く”ことを試みた。ただ、最上がそのために超えた“一線”は、いくら自分の信念に基づく目的があったとはいえ、あまりにも多大な労力を要する上、大きな危険をはらんでいる。

 最上の一連の行為の動機の一つには、もちろん、かつて親しくしていた由希(長田侑子)の死がある。ただ、その由希を殺されたことへの憎悪と、“法の目をかいくぐる人間がいてはならない”というある種の正義感が極めて歪んだ形で結びついていった。法を犯したものは、しかと法で裁かれなければならない。この考えは、額面通りに受け取れば最もなことのようにも見える。“バレなければいけないことをしても良い”といったことはないに越したことはない。しかしこのような最上的正義が、自分の怨嗟と結びついた時、暴走は始まる。沖野(二宮和也)に作り上げた虚構のシナリオを滔々と語るときや、秘密裏に動く橘(吉高由里子)に怒鳴り散らす際の最上は、あまりにも不気味だ。そこにはためらいも臆面もないからだ。

 一方、最上自身は何からも、誰からも苦しめられていないかと言われれば、そうではない。戦場で友人の丹野(平岳大)と肩を支えながら歩くシーンや、弓岡を銃殺する瞬間のシーンの最上は、弱く、臆病で、脆く見える一面が垣間見える。こんなこと、冷静になって考えたら馬鹿げているのに、やらなくてはならないのは何に、誰に原因があるというのか。法、システムのせいなのか、松倉のせいなのか。いろいろと解釈する余地はあるだろう。ただひょっとすると、最上自身が最上を苦しめ、囚えていたのかもしれない。正義を説き、そのためには“一線を超えるべきだ”という自分と、それに従わざるを得ない自分。目的が何であれ、松倉が友人を殺めたことは許されないが、自分が裁判を経ずに弓岡を殺すことは許され得るというのでは、辻褄が合わない。最上は、ある意味では一人二役分を背負っているようにも見える。

 インパール作戦の描写が観た人の間でしばしば作品の謎になっており、見方によっては様々であって、ある意味、難解である。最上自身が無謀な作戦に苦しめられた兵士なのか、それとも無謀な作戦に取り憑かれ、その指示を下した側の人間なのか。あるいは、司法といった何か巨大な存在に翻弄される“犠牲者”なのか。それが何を意味し、どうして描かれるべきだったのかは論議のテーマになりそうだ。

(文=國重駿平)

■公開情報
『検察側の罪人』
全国東宝系にて公開中
監督・脚本:原田眞人
原作:『検察側の罪人』雫井脩介(文春文庫刊)
出演:木村拓哉、二宮和也、吉高由里子、平岳大、大倉孝二、八嶋智人、音尾琢真、大場泰正、谷田歩、酒向芳、矢島健一、キムラ緑子、芦名星、山崎紘菜、松重豊、山崎努
製作・配給:東宝
(c)2018 TOHO/JStorm
公式サイト:http://kensatsugawa-movie.jp

関連記事