なぜ私たちは“木村拓哉”を求め続けてしまうのか 『検察側の罪人』最上役の生々しさを紐解く

 『検察側の罪人』は、木村拓哉に一線を超えさせた映画だ。それは、木村扮する最上毅が犯す罪の意味だけではない。彼の中から、どくどくと溢れ出る人間の弱さと脆さ。これまで木村拓哉という人間が背負ってきたものの大きさに比例した、とてつもなく重い憂い。

 “こんな木村拓哉は見たことない”か、“こんな木村拓哉が見たかった”か……。鑑賞後、どちらの感想を抱くかは、スーパースター“キムタク”と、人間“木村拓哉”と、どの顔を強く意識して見ていたかによって異なるかもしれない。きっと木村自身は変わっていない。おそらく、どの顔も、ずっとそこにあったのだ。この映画のオープニングで流れたシンメトリー映像のように。間違いなく、彼にとって転機になる作品であることは、誰もが感じたはずだ。

 長い間、私たちは木村拓哉にヒーローを求めてきた。SMAPが結成されたのは、平成の世が明けるのとほぼ同時期。不況のあおりを受け、華やかな音楽番組が次々と消えていく中で、歌って踊るだけではないアイドル像を確立していった彼ら。なかでも木村は、演じるアイドルの先駆者だった。

 「アイドルなんて」と言っていた普通の男の子だった木村が、気づけば世の中を導くヒーロー像を演じ続けていたのだ。ヒーローは挫折を経験して、さらに強くなっていく。どんなに苦しくても、決して道を踏み外さない。そんな姿を見続けてきた結果、いつしか木村自身が、決して負けることのない“キムタク”というヒーローであるような気さえしていた。実際、これまで世間からどんな厳しい声にさらされても、木村が取り乱すような姿を見たことがない。

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