『万引き家族』は“誘拐”をどう描いたか? 弁護士が法的観点から読む

   男性が実刑を受けずシャバにいることは、無罪ではなく執行猶予付き判決だったといった説明は可能だろう。だとしても、少なくとも誘拐に関わったことは明らかな大人と、被害者である子が、2人きりで行動することをみすみす見過ごすとは、少年の周囲の大人、具体的には養護施設の職員らは一体何をしているのだろうか。少年が再び誘拐されたらどうするのか。あと、その釣竿は盗品ではないのか。

 その後、拘置所なのか刑務所なのか判然としないが、男性は少年を連れて女性に面会に行く。加害者である大人2名と被害者である少年1名の計3名だけというリスキーな面会がスルーされる刑事施設は存在するのか。大人2人が罪を逃れるため少年を言いくるめる危険性は考えないのか。

   一番下の女の子があっさり虐待家庭に帰され、親はすぐ虐待を再開する、という展開もそう。この世界には児童相談所は存在していないかのようだ。

   フィクションの登場人物の行動に現実のルールをあてはめて、矛盾点をあげつらっているわけではない。前提として、フィクションである以上、どれだけ現実を参照していても、その世界を支配するルールは現実とは異なってよいはずだ。しかし、この映画は、現実によく似た世界(舞台は荒川区だと作品中で明示される)を舞台にして、現実と同じであろう法制度を前提としながら、作品を支配するルールが相当偏った歪み方をしている。はっきり言ってしまえば、この映画を支配しているルールは、未成年者の誘拐に対して不当に甘い。

 きっかけは誘拐であっても、大人から子に教えられたのは万引きの技術だけであっても、そこには確かに「絆」があった。そういう当事者の言い分に、芸術家は耳を傾けるべきだということは筆者も同意するが、この映画では、映画の作品世界全体が当事者の言い分に耳を傾けてしまっている。過ちを犯してしまう人の甘い認識と、それに寄り添う芸術家の優しさが、作品内世界全体を支える論理の骨格まで侵食してしまっているのだ。

 過ちを犯してしまう弱い存在に寄り添った芸術を作ることと、その芸術作品の世界の中でその過ちが優しく扱われることとは、全然違うことだと思う。

 映画の最後の最後、それでもみんなで「家族」を作ったつもりでいた男性に対して、少年は、実は少年自身が自分の意思で「家族」に対し裁きを下していたとも解釈できる、ある事実を告げる。

  しかし、被害者本人であり何より未成年者でもある少年に裁きまで任せてしまうのではなく、作品自体が「家族」に対し責任をもって厳しい裁きを下すべきだったのではないか。安藤サクラ演じる女性はともかく、リリー・フランキー演じる男性も、松岡茉優演じる若い女性も、その犯した罪に応じた裁きを受けているようには筆者には見えなかった。

■小杉俊介
不動法律事務所所属の弁護士/ライター。
音楽雑誌の編集、出版営業を経て弁護士に。

■公開情報
『万引き家族』
TOHOシネマズ 日比谷ほかにて公開中
監督・脚本・編集:是枝裕和
出演:リリー・フランキー、安藤サクラ、松岡茉優、池松壮亮、城桧吏、佐々木みゆ、緒形直人、森口瑤子、山田裕貴、片山萌美、柄本明、高良健吾、池脇千鶴、樹木希林
製作:フジテレビ、ギャガ、AOI Pro.
配給:ギャガ
(c)2018フジテレビジョン ギャガ AOI Pro.
公式サイト:http://gaga.ne.jp/manbiki-kazoku

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