『バーフバリ 王の凱旋』は歴史に残る娯楽超大作だーー黒澤明やジョージ・ルーカスの精神を受け継ぐ

『バーフバリ 王の凱旋』が傑作となった理由

 目を惹くのは何といっても、プラバース演じるアマレンドラ・バーフバリ王子の、あまりにも望外なかっこ良さである。劇中歌によって「天界さえその勇姿を讃える」と強調されているように、まさにカリスマが服を着て歩いているようだ。インドの神話では、神が人のかたちで現世に顕れることがあるように、バーフバリはシヴァ神の生まれ変わりとして描かれている。強く美しい妻、デーヴァセーナに足蹴にされることを厭わず、彼女の尊厳を守るためならば地位すら捨てる。そして、母親代わりの国母シヴァガミへの忠節と献身。そこにあるのは、「イケメン」などという浅薄な価値観をはるかに超越した、インドの歴史、哲学、さらに進歩的なグローバリズムすら巻き込む圧倒的な「美」であるといえよう。

 本作で引っかかる部分があるとするなら、作品自体が王権政治を是認しているように見えるところだろう。だが、インドの哲学において「クシャトリア(王族、士族)」の義務が説かれるように、本作でも命を懸けることこそが「王族の義務」だと語られる。バーフバリが庶民とともに働き、ともに喜び、悲しむ描写で示されるのは、政治を執り行い、人の上に立ち豊かな暮らしをする者の心は、庶民とともにあらねばならず、有事の際には先頭になって矢面に立たなければならないということである。それは、部下や庶民たちを犠牲にして保身に走り、特権を貪ってふんぞり返っている権力者が多い現代にも通用するメッセージとなっているのだ。

 通常の映画であれば、クライマックスに相当するような場面が次々と繰り出されていくのもすごい。『ベン・ハー』や『300〈スリー ハンドレッド〉』、『アベンジャーズ』や『タイタニック』など、演出上でも様々なハリウッド娯楽作からの引用が多いが、それらは元の描写をスケールダウンさせておらず、場合によっては上回る表現として昇華させている。

 キーヴィジュアルの一つともなっている、裏切りに遭うバーフバリの姿は、インドや東南アジアでなどで盛んな影絵芝居を想起させ、また煙に映る宿敵バラーラデーヴァの影や、その首筋を伝わる一条の汗など、その演出スタイルは、ドイツやロシア表現主義映画の歴史をも負っていると感じられる。これだけの幅広い表現を一人の監督が自分のものとしているというのは、驚異的と言う他ない。

 S・S・ラージャマウリ監督は、人間の男が転生したハエを主人公にした異色作『マッキー』において、ハエが筋トレして腕力を高め、人間の恋敵に立ち向かったり、ハエが踊りまくる狂った描写を、質の高い娯楽作品に仕上げるという荒技を成功させている。そのような奇跡的な映画が撮れるというのは、表現力の豊さがあってこそだ。本作でも、マヒシュマティ王国へ向かう船の帆柱が、象を模した超巨大な像の足裏に引っかかるという、不安を喚起させる見事なシーンに代表されるように、表現の難しい、一つ一つのシーンにおける的確な演出が、全体のダイナミズムを支えているのだ。この才能は疑うべくもないだろう。

 国母シヴァガミが頭に燃え盛る火鉢を乗せて、歩みを止めずに寺院へ向かうという荒行のシーンより本作の物語は始まる。その途上に暴れ象が現れ、民衆が逃げ惑うなか、シヴァガミはそのまま猛り狂う象に向かって大道を歩いていくという大ピンチの描写を、前から後ろから切り返しで撮るという演出。このスペクタクル・シーンで、私が強烈に喚起されたのが、黒澤明監督の『用心棒』だった。『用心棒』で初めて黒澤映画を目にしたとき、こんなに娯楽に徹しきった面白い映画が、この世に存在していたのかという、体に電光が走るような衝撃を受けたことを鮮明に覚えている。その衝撃が、同じレベルでここに再現されている…!

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