スターチャンネル「新時代の巨匠クリストファー・ノーランの世界」特集1

“大監督”クリストファー・ノーランの作家性ーー映像作家と劇作家、ふたつの側面から徹底考察

 ノーランの本物志向は、ただ撮る対象を本物にするというだけにとどまらない。ドキュメンタリー映画『サイド・バイ・サイド:フィルムからデジタルシネマへ』では、映画界がデジタル撮影へと移行していくなかで、アナログフィルムでの撮影を擁護し、アナログフィルムでの上映の優位性を力説するノーランの姿が見られる。

 映画におけるデジタル撮影の精度が上がり、HD、2K、4Kと、映像の質が向上し続けている。しかし、どれほど詳細になろうとも、デジタル画像は「0」と「1」が組み合わされ表現されたモザイク画に過ぎず、境目のない粒子で画像を構成しているアナログフィルムよりもスムーズなものになることは考えにくい。であれば、クリストファー・ノーランが、どれだけコストが高かろうと、撮影の難度が上がろうとも、現時点で少しでも質が高いと考えられるアナログフィルムを選択することは当然だろう。だが、彼はデジタル技術やCGを憎んでいるわけではない。実際、彼の映画では必要不可欠な箇所ではCGに頼っている。極力CGを使いたくないというのは、過去への郷愁ではなく、実写で撮った方が仕上がりの点で、比較的良い結果が得られると判断しているからに過ぎない。

『インセプション』(C) Warner Bros. Entertainment Inc. and Legendary Pictures

 その結果というのが、音楽でいえばクラシック音楽に例えられるような、落ち着いた美しいトーンであり、なめらかでリッチな雰囲気である。ただし、スティーブン・ソダーバーグのような監督は、フィルム特有の粒子のざらつきを、「汚い、純粋ではない」と嫌っている。これについては、映像に何を求めるかによって、評価が変わってくるようである。

 アナログの手法といえば忘れてはならないのは、『インセプション』で見られたトリック撮影だろう。ジョゼフ・ゴードン=レヴィットが、夢の中のホテルの廊下で戦うシーンでは、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』で見られた、セット全体が回転する仕掛けを利用し、上下の感覚が失われるなかでのアクションが描かれる。この重力の移動というのは、CGでは得られないリアリティを画面に与えている。

劇作家としてのクリストファー・ノーラン

 ノーランは、監督作のほぼ全ての脚本を手がけている。その内容は娯楽性が高く、しかし同時に陰鬱で暗いものが多い。出世作となった『メメント』は、妻を殺された男が、定期的に記憶を喪失するという症状に苦しみながら、犯人を追いかけ事件を捜査するという絶望的なものだったし、『プレステージ』や『インセプション』なども、やはり恋人や妻を失った男が喪失感に耐えながら、身を引きずるように絶望的な闘いを続けていくという、悲壮感漂うものになっている。

 その喪失への共感が、娯楽映画に必要な感情移入を生む仕掛けになっているともいえるし、また、そこにある厭世的な態度と、底流する破滅願望が、映像の美的な効果とともに一つの美学を形成しているようにも感じられる。このような、ある種のナルシスティックな個人的世界に完璧に同調し、それを味わい続けたいと思う観客たちが、“ノーラニスト”という熱狂的ファンになるのだ。一方でノーラン監督自身が、その雰囲気に耽溺するあまり、ユーモアや客観性が欠如しているように感じられる部分もしばしばで、そのことで彼の作風を苦手とする映画ファンも、一部にはいるようだ。

『ダークナイト』(C) Warner Bros. Entertainment Inc.

 その個性が強く出たのは、ノーランによるバットマン映画、『ダークナイト』シリーズであろう。ノーラン監督が創造したバットマンは、厳しい現実に対して悲観主義的で、内省的な部分がとくに強調されたヒーローになっている。そんなイメージを継承して、バットマンやスーパーマンなど、近年のDCコミックスの映画化企画は、大ヒットを記録した『ダークナイト』の成功体験から、一様にダークでリアリスティックな、ノーラン的な暗さを引きずるものとなっていた。

 ノーラン監督は、イギリスのスパイ映画『007』シリーズの大ファンとしても知られているが、『ダークナイト』の世界観に魅了されたサム・メンデス監督は、実際にそのテイストをそのまま『007 スカイフォール』、『007 スペクター』へと持ち込んだ。これらの作品も、やはり熱狂的な支持を得る一方で、そのあまりに深刻すぎる雰囲気が、昔からの007ファンの反発を呼んでいるケースも見られる。その意味では、ノーラン監督の作品世界というのは、コミックやジャンル映画の既存のファンの間で賛否を呼び起こす部分があるようだ。

 このような一種のカリスマ性というのは、スタンリー・キューブリック監督のそれと比較されることも多い。確かに、研ぎ澄まされた映像美と知的なアプローチという意味では、両者に強調する点は多いといえる。ただ、キューブリックは、突き放した冷徹な客観性とユーモアを持っており、ノーランはより主観的で情動的だという違いがある。さらに両者が決定的に異なるのは、ときに説明を放棄して観客に謎を与えるキューブリックに対して、ノーランは観客に状況をしっかりと説明するという義務感が強いという部分だ。その意味では、ノーランはより大衆娯楽的な資質があるといえよう。

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