ドイツから生まれた異形の傑作『ありがとう、トニ・エルドマン』 甘くてにがい父娘の関係描く
こんなシーンがあった。合理化を進めようとしている旧国営企業の石油プラントの視察に出かけたイネス(と、なぜかトニ・エルドマン氏も同行している)が、現場主任によってクビを申し渡された労働者について“私たちが手を汚す手間が省けた”と口走ったことに対して、トニ・エルドマン氏がひどく狼狽するのである。そもそもの原因はトニ・エルドマン氏にあったようにも思える。視察中に便意をもよおしたトニ・エルドマン氏が、ふらふらとコースを外れて、石油プラントの坂下にある労働者の自宅でトイレを借りたことで、なにか誤解と手違いが生じたような展開である。
父ヴィンフリート=トニ・エルドマン氏が、娘の前でバカを演じるのは、娘に非人道的な労働環境から足を洗うように、説得するためであろうか。まあ実際はそんなところだろうが、それが分かったところで、この映画の魅力はそんな納得の風土をどこまでも拒否している点にある。一歩間違えたら、逸脱の血を引く娘も第2のトニ・エルドマンにいつなんどき変貌するかどうか、予断を許さない。ブルガリアの伝統的な厄除け衣裳(毛むくじゃらのナマハゲみたいなもの)と、全裸という組み合わせ。極と極が相対したとき、この映画で最も父娘が接近する。
親子であっても兄弟であっても、違うものは違う、ということだ。もちろん他人同士にしろ、違うものは違う。このにがい認識のもとで、それでも人生は続く。父ヴィンフリート=トニ・エルドマン氏は、1960年代に青春期を過ごし、精神的にはジョン・アーヴィング世代と言ってしまえるのだろう。トニ・エルドマン氏はアーヴィングの小説の登場人物によく似ている。コンサルティングに邁進する娘に、コンサルトしてもらうために、彼は永遠に娘を困らせるだろう。娘も迷惑顔をあからさまに浮かべつつ、困惑し続ける。
娘イネスが孕み持つ、内なる〈トニ・エルドマン性〉がいつ、いかなる形で首をもたげてくるのか。それは映画のそこかしこに徴(しるし)がついていた。観客がその微細な変化に気づくかどうか。“信管を外すのが楽しみで仕方がない”と、映画の冒頭で宅配便の青年相手にトニがうそぶいた台詞は、永遠に有効である。永遠にわくわくするために、むしろイネスは体よくほこを収めつつ、「信管処女」を気取っているだけなのかもしれない。ドイツ映画界にまだこんな異形の傑作を生ませるだけの度量が残っていたのか、とビックリしたのが正直なところで、その認識不足をどうか謝らせていただきたい。
■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。
■公開情報
『ありがとう、トニ・エルドマン』
6月、シネスイッチ銀座、新宿武蔵野館ほか全国順次公開
監督・脚本:マーレン・アデ
出演:ペーター・ジモニシェック、ザンドラ・ヒュラー
配給:ビターズ・エンド
2016年/ドイツ=オーストリア/162分/原題:Toni Erdmann
(c)Komplizen Film