松江哲明の“いま語りたい”一本 第15回

松江哲明の『不思議惑星キン・ザ・ザ』評:中央線サブカルチャーに通じる“不条理コメディ”

 1986年の公開当時、本国ソ連では1570万人の動員を記録し、日本では1989年に初公開され、2001年にはリバイバル公開を果たした『不思議惑星キン・ザ・ザ』が、Blu-ray&DVDとして本日2月15日に発売された。ソ連崩壊の直前に作られた本作は、ゲオルキー・ダネリヤ監督が手がけたSF巨編で、当時の社会情勢に対する皮肉を込めながらも、脱力的な作風が人気となり、日本でもカルト的な支持を得続けている。本作の色褪せぬ魅力を、映画監督・松江哲明に語ってもらった。(編集部)

 『不思議惑星キン・ザ・ザ』が何年もファンに愛され続けている理由のひとつは、あの惑星特有の言語である「クー!」ですよね(笑)。あのポーズと不思議な間の声。NHKのドキュメンタリー番組で知ったのですが、異国の子どもがコミュニケーションを取る場合、相手の国の言葉を使うよりも、相手が分からなくても自国語を使った方がコミュニケーションが取れるらしいんです。となると、『キン・ザ・ザ』で描かれていることにも嘘はなくて、だいたい「クー!」だけで通じる(笑)。言葉って、声のトーンやそのときの表情、身振り手振りで通じるものであって、意味は通じなくても真意は通じる。「クー!」も一見、ふざけているように見えるんですけど、実は人間の真理が描かれているのかとも思ってしまいます。

 『キン・ザ・ザ』のVHSジャッケットは、今回発売されるブルーレイとDVDのようなオシャレなデザインではなくて、砂漠に宇宙船が置かれているだけの非常に地味なものでした。当時、中央線沿線のビデオ店には必ずと言っていいほど置いてあって、僕が働いていたレンタルビデオ店でも、デビッド・リンチの『イレイザーヘッド』やテリー・ギリアムの『未来世紀ブラジル』、デレク・ジャーマンの作品などと同じ“カルト”枠にありました。そういった先入観もあったせいか、初めて観たときは、「どんな楽しみ方をすればいいんだろう?」と戸惑いがありました(笑)。でも、2001年のリバイバル上映や、特集上映、そして昨年のリマスター版と、観る度に違った面白さがあり、いまやこの世界観にどっぷりと浸っています。

 

 突然、キン・ザ・ザ星雲の惑星プリュクにワープしてしまった男たちが、「クー!」しか言わない異星人と出会い、戸惑いながらもその現状を受け入れていく。いきなり異世界に移動したからといって、そこで果敢に闘うわけではなく、彼らは決して“頑張らない”(笑)。不条理さを笑い飛ばすその精神性は、つげ義春さんの漫画と通じるものがあるというか、「ガロ」や「アックス」といった、日本の中央線文化が生み出してきたサブカルチャーに通じるものがあります。現在の漫画家だと、いましろたかしさんが近いでしょうか。

 『ブレードランナー』や『マッドマックス2』にハマった人が、壮大なスケールを描いたディストピアものとして『キン・ザ・ザ』を観たら、むしろ「これは俺だ!」となっちゃう感じ(笑)。地球外を舞台にする話でありながら、この映画を最後まで観て一番思うのは、どの世界にも普遍的にある「友達が欲しい」という気持ちです。おかしな世界に行っても、普段と変わらないオジさんたちのマインド、冴えない男たちの友情物語を、身近に感じる人も多いのでは。心の機微に敏感な日本人の感覚にこそハマるものなのかも。

 

 どんな人でも楽しむことができるポップさがある一方で、この作品の背景には、ソ連の社会主義や資本主義に対しての批判が込められています。崩壊直前のソ連の中にいる作り手たちが、いまこの世界をどう描かなくてはいけないか。差別や階級、難民を馬鹿にする姿勢を滑稽に描きつつ、当時の世の中を批判している。なぜこんな設定にして、物語を描くのか。それは“現実”では描けないからです。フィクションを通さないと伝わらない真実がここにあります。

 僕がいろんな国の映画、いろんな時代の映画を観てほしいと思うのは、自分の知らない情報を知ることができることと、国籍や時代は違っても、人間ってそんなに変わらないと気づけるからです。近年、北朝鮮を舞台とした映画や、ヒトラーを題材にした映画の日本公開が増えていますが、それは「知らないことを知りたい」という気持ちのあらわれだと思います。そして、そこで描かれている人間たちは、摩訶不思議な存在ではなく、自分たちと大して変わらない感覚を持っています。だからこそ、『キン・ザ・ザ』を見ると、世界は広いということを知る一方で、共感も抱いてしまうのでしょう。

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