『シン・ゴジラ』は日本の何を破壊する? 庵野秀明監督が復活させた“おそろしい”ゴジラ像

 映画のなかで核爆弾投下の選択肢が提示されると、唐突に広島と長崎の当時のモノクロ写真がインサートされる。太平洋戦争において、原爆が市街地に落とされるという人類史のなかでも未曽有の悲劇は、当時のアメリカ政府の判断によってもたらされたものであるが、一方では、当時の日本政府に迅速な判断、対応ができていれば、悲劇を未然に回避できた可能性があったという見方もある。ここで問題になっているのは、政府の楽観や誤った判断によって大勢の市民の命が犠牲になることがあるという事実である。そして本作で描かれる日本政府もまた、同じ岐路に立たされ対応を迫られるのである。

 

 1954年の『ゴジラ』第一作は、当時問題になった、ビキニ環礁での米軍による水爆実験によって日本の漁船員が被ばくしたという「第五福竜丸」事件が下敷きになっている。この事件は、戦後平和を取り戻した日本国民にとって、原爆投下の恐怖をふたたび思い起こさせるものだった。その恐怖の象徴がゴジラとして、映画のなかのモンスターというかたちで可視化されたのである。それは悲劇を忘れ、高度経済成長の恩恵に浴し享楽にふける日本への、過去からの復讐でもある。ゴジラは、死者たちの魂が集まった一個の巨大な怨念体であるともいえるだろうし、戦後の日本人の罪悪感の象徴ともいえるだろう。

 本作のラストカットの意味は、やはりその「罪(SIN)」を思い出させようとする意図があるだろう。楽観的で責任を取ろうとしない現代の日本は、300万人以上の犠牲者を生み出した太平洋戦争の総括すら満足にできておらず、本質的な意味で変わってないように思える。日本社会が変わることなしには、何度でも悲劇を繰り返すだろう。東日本大震災においても、大勢の被害者や避難民を生んだ日本は、社会ごと「成長」する義務があるのである。それを試し、裁こうとする存在が「シン・ゴジラ」である。

 そして、本作の特撮上の見どころは、やはりゴジラがとうとう熱線を放射する瞬間だ。まさに庵野監督が手掛けてきたSFアニメーションのセンスで、赤い火炎が収斂され、紫色になった光の刃が放たれ、それが横切るとビル群が次々と両断されていき、東京の中心部がほんの数秒で大炎上し壊滅する凄絶な光景は、他の多くの実写映画監督の発想を超えた「虚構」の快感に満ちている。ゴジラは、米軍が貫通爆弾を投下したときにはじめて、哀切を帯びた合唱曲の調べにのせて、この光線によるおそろしい反撃を開始する。それは、過去の悲劇から目を逸らし忘れようとする「日本」に向けられた怒りであるだろう。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

 

■公開情報
『シン・ゴジラ』
全国東宝系にて公開中
出演:長谷川博己、竹野内豊、石原さとみ
脚本・総監督:庵野秀明
監督・特技監督:樋口真嗣
准監督・特技統括:尾上克郎
音楽:鷺巣詩郎
(c)2016 TOHO CO.,LTD.
公式サイト:http://www.shin-godzilla.jp/

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