宮台真司の月刊映画時評 第4回(後編)

宮台真司の『アレノ』『起終点駅 ターミナル』評: 潜在的第三者についての敏感さが失われている

潜在的第三者の映画『起終点駅 ターミナル』

 『起終点駅 ターミナル』は、脚本が原作と相当違うけど、それが良かった。旭川で判事として働く鷲田完治(佐藤浩市)の下に、薬物売買の被告人として学園闘争時代の恋人・結城冴子(尾野真千子)が現れます。それを機に妻子ある完治にとっての不倫関係に入るが、東京高裁への栄転で二人が電車に乗るというとき、女が飛び込み自殺します。

 25年が経ち、男は人間関係を絶ち、釧路で国選弁護人としてひっそり生活します。自分自身を懲役刑に処したかのように生きる中、薬物所持の被告人として若い椎名敦子(本田翼)と出会い、ある種の回復を遂げます。冴子がかつて完治を振ったときに残した「戦え、鷲田完治!」の言葉がキーワードですが、「戦う男」になって終わるハッピーエンドです。

 この脚本も潜在的第三者をモチーフにします。学園闘争時代の完治にとって恋人だった冴子は、完治が何をする場合でも潜在的第三者として機能していました。その冴子が蒸発して潜在的第三者が失われたことで、完治は動機付けを失います。そうなることを見通していたかのように、冴子は「戦え、鷲田完治!」の言葉を手紙に残して蒸発します。

 以降は死んだように生きていた男が、25年ぶりに旧恋人と再会して再び恋に落ちることで、かつての潜在的第三者を再獲得し、東京高裁判事として再起動しようとします。ところが、皮肉なことに、そのことが女が自殺した理由に関わります。彼にとって意味があるのは潜在的第三者としての“元恋人”であって、現実の恋人ではなかったからです。

 女にとっては当然そんなことは知ったこっちゃない。「自分自身をどう見てくれているか」だけが重要なのです。しかし、この映画にも演出上の問題があります。冴子の自殺が何だったかを反省するパートを欠いたまま話が転がっていくので、大半の観客は、「なぜ彼女が自殺したのか」という謎を抱え続けることなく、ラストを迎えてしまいます。

 篠原監督が「全ての二者関係は潜在的三者関係としてある」という定理を自覚していたら、完治が「戦う」のは冴子が潜在的第三者として機能する場合だけである事実に注目し、完治に安定と積極性を与える潜在的第三者としての冴子と、現実の冴子との間に落差があるからこそ、完治を置いて冴子が自殺したのだ、と観客を納得させられたでしょう。

 補足します。社会システム理論の視座から言えば、「見る人」がいないとちゃんとできない成員が大半の社会は複雑になれません。特定の対人関係が要求され、コミュニケーションの文脈が制約されるからです。だから部族段階から文明段階に複雑化した社会は、「見る神」の表象を持ちます。代表的なのはユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神です。

 これらは同一神ですが、それに限られません。日本で「お天道様が見ている」「ご先祖様が見ている」という際も「見る神」を持ち出しています。前教皇ベネディクト16世が、キリスト教の唯一神の本質は「見る神」で、罰や報償を与える神ではないと言います。罰や報償に関係なく、「見る人」やそれがいない場合は「見る神」がいれば人はシャンとします。

 ところが、キリスト教文化圏の西欧では、「見る神」が働かなくなる世俗化と入れ替わりに、「見る自分」が働く主体化(に向けた規律訓練)が進みます。というとフーコーの議論が有名ですが、古くはウェーバーが打ち立てた図式です。見られた自分Meに他ならぬ自分自身Iが反応するというミードの図式も、フーコーにはるかに先立っています。

 「見る人」から「見る神」を経て「見る自分」へ、という文脈自由化の図式は専ら西欧近代の理念型(極端化した図式)です。ミードを紹介してお話ししたように、そこにいる「見る人」=顕在的第三者から、そこにいない「見る人」=潜在的第三者へ、というステップが最もありふれている。潜在的第三者が「見て」いるのでシャンとするとはそういう意味です。

 さて映画に話を戻すと、自らを懲役刑に処したかのように釧路で生活する男にしては、佐藤浩市に色気があり過ぎる、つまりバイタル感が強いことが、違和感を感じさせます。彼が沈潜した釧路の“風景”が、もう少し説得的に描かれれば、印象も違ったかもしれない。人間の心の状態は風景として表れ、風景がその人間に浸透して心を形作るからです。

 佐藤浩市に色気がある所に本田翼がミニスカ姿で登場するので、観客は「歳の差恋愛」を予感させられて、それゆえ、男が自分次第では歳の差恋愛に持っていけるのに“殊勝にも”ロリコン疑惑を回避した、という風に見えるのも問題。25年前の冴子と現在の敦子(本田翼)が共通して薬物所有の被告人として完治に出会うという反復が活かされません。

 こうした反復は「試練として」演出される必要があります。同じ失敗を繰り返すか否かという試練です。完治は、一度目は、自分には潜在的第三者が必要である事実や、再開した元恋人を潜在的第三者として見立てた事実に、無自覚だった。二度目は、「再び」出現した薬物所持の若い女を前にして、彼はこうした事実を自覚できるようになったーー。

 だからこそ完治は、敦子(本田翼)が「戦え、鷲田完治!」と呼び掛けるトリガーとしての潜在的第三者だと気づきながらも、全ては自らの心が惹起している展開に過ぎないので、かつて冴子を巻き込んだのとは違って、敦子を巻き込まないように抑制したーーといった構成にしなければならないはずです。一度目と二度目の間で、完治が成長した訳です。

 そうであって初めて、目の前に「再び」薬物中毒の女が現れたーー最初は冴子が現れて二度目は敦子が現れたーー意味を、観客に納得させらます。さもないと単に土曜ワイド劇場/火曜サスペンス的な「不思議なこともあるものだ」的なエピソードになってしまい、前編で解説したアレゴリー(寓意)ーー潜在的第三者を巡るソレーーになりません。

 僕の映画批評が目標とする「実存批評」の観点からすれば、『起終点駅』の脚本には潜在的第三者というポジションへの理解を前提として初めて得られる深さがあるのに、演出がそこを掘れていない。『アレノ』の原作(ゾラ『テレーズ・ラカン』)もそう。潜在的第三者を前提とした深さがあるのに、『アレノ』の脚本と演出もそこを掘れていない。

 今回は、敢えて『アレノ』『起終点駅」両作のダメな部分を取り上げました。ダメな部分は、技術的問題を超えた構造的理由ーー潜在的第三者への無視ーーに基いていて、それを指摘することが万人にとって教訓になると考えたからです。潜在的第三者を無視する間違いは、人間関係を描く上で「倫理的に」許されないだろう、とさえ思っています。

(取材=神谷弘一)

■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter

■公開情報
『アレノ』
監督:越川道夫
脚本:越川道夫、佐藤有記
原案:エミール・ゾラ「テレーズ・ラカン」
出演:山田真歩、渋川清彦、川口覚、内田淳子、遊屋慎太郎、諏訪太朗
配給:スローラーナー
公式サイト:http://www.areno-movie.com/

『起終点駅 ターミナル』
監督:篠原哲雄
脚本:長谷川康夫
原作:桜木紫乃「起終点駅 ターミナル」(小学館刊)
出演:佐藤浩市、本田翼、中村獅童、和田正人、音尾琢真、泉谷しげる、尾野真千子
配給:東映
(c)2015桜木紫乃・小学館/「起終点駅 ターミナル」製作委員会
公式サイト:http://www.terminal-movie.com/

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