異形の超大作『007 スペクター』が完成させる、最強のジェームズ・ボンド
スパイ映画大作が次々と公開された「スパイ当たり年」の最後を飾るのは、娯楽スパイ・ヒーロー映画の代表であり、50年以上の歴史がある、シリーズ最新作にして、3億ドルともいわれる未曾有の制作費を投じたシリーズ最大作『007 スペクター』である。著作権上の問題から封印されてきた、ジェームズ・ボンド本来の敵といえる悪の組織「スペクター」が、満を持して復活する本作は、まさにスパイ映画の真打ち登場という風情である。(参考:007最大の敵「スペクター」とは何か? ボンド映画の歴史を振り返る)
その内容は意外にも、深刻さと哲学性を感じさせ大ヒットした前作と異なり、娯楽活劇に振り切ったものになっていた。だが同時に、一口では言い表せないような、不自然で異様な印象をも与えられる。いち早く観た観客からは「シリーズ最高傑作だ」とか、「いや、ワースト作品だ」などと、極端な反応が飛び交い、大変面白い状況が生まれている。今回は、賛否両論、異形の超大作『007 スペクター』の真の姿に深く切り込んでいきたい。
サム・メンデス監督の表現する「シンボリズム・ボンド」
007シリーズでは、オープニングで銃口に狙われたボンドが振り向きざまに拳銃を撃つ、「ガンバレル」シーンがお馴染みである。ダニエル・クレイグがボンドを演じる、この新シリーズでは、おそらく「ダブル・オー」になりたての頼りない存在が真のスパイへと成長するというコンセプトもあり、劇中かラストに配置されていた。だが本作では、それが堂々とオープニングに置かれている。これは、前作『007 スカイフォール』で、とうとうクレイグ・ボンドが真の007となり、王道を突っ切る本来のボンド映画になったのだという宣言であろう。だからその内容も、クレイグ以前のボンド映画のエッセンスを濃縮したような、まさに「ボンド映画」という印象を受けるものとなっている。
前作の撮影監督ロジャー・ディーキンスに代わり、『裏切りのサーカス』、『インターステラー』の撮影監督ホイテ・ホイテマによる、堂々とした遠景のショットは、それぞれが一幅の大きな絵画のように、異国情緒や花鳥風月を写し取り、美術館で屏風絵を眺めているような、重厚で洗練された抽象的印象を与えられる。それは、サム・メンデス監督による『007 スカイフォール』の描く、迫真性を一部犠牲とした「反映像的」ともいえる、シンボリズム(象徴性)を帯びた絵画的な世界観を継続するものだ。
メンデス監督が『007 スカイフォール』で試みたのは、時代錯誤なボンド風ダンディズムと、国としての力を失墜しつつある英国を重ね合わせるというものである。かつて威容を誇った英国の大戦艦が役目を終えて曳航されていく、ターナーの絵画を美術館で眺めながら「世代交代か…」などとつぶやくシーンなどは最も分かりやすい箇所だ。ボンドは強敵と渡り合うために、かつての力を取り戻すべく、スコットランドの郷里へ向かい敵を迎え撃とうとする。この論理を度外視した荒唐無稽な発想は、脚本のリアリティからいえば破綻したものに違いない。しかし、祖国の山河から英国を根底から再生させようという作品のテーマとしての、抽象的意味合いのなかでは正しいのである。ここから、メンデスの表現する作品世界が、リアリティから離れたシンボリズムに支配されているということが理解できるだろう。
「ボンド映画」を「ボンド映画」で描き直す狂気
それでは、本作『007 スペクター』が「象徴」するものとは何だろうか。本作のアヴァンタイトル(タイトル・クレジットまでのパート)では、メキシコの祭り「死者の日」で仮装した群衆の頭上を、ヘリコプターで飛び回り格闘するアクションが展開する。この、何度も空中を往復するヘリのアクションは、『007 ユア・アイズ・オンリー』でのブロフェルドとの決戦の引用であり、死と音楽が結びつくイメージは『007 死ぬのは奴らだ』のニューオリンズの葬送を思わせる。他にもシリーズからの引用は多い。雪山にある病院は、『女王陛下の007』からであり、『007 ゴールドフィンガー』に代表される拷問器具やボンドカーが活躍し、往年の悪役「ジョーズ」をイメージしただろうデヴィッド・バウティスタ演じる大男との列車での死闘は『007 私を愛したスパイ』や『007 ロシアより愛をこめて』のダブル・イメージである。ボンドがねずみに話しかけるシーンですら『007 ダイヤモンドは永遠に』の引用なのだ。挙げていくとキリがない。
確かにクレイグ・ボンドのシリーズでは、過去作の名シーンがいくつか引用されていた。だが本作の異常なまでのオマージュ、セルフパロディの多さは、シリーズへの愛を通り越して病的ですらある。そうやって形づくられる異様な集合体は、あたかも「ボンド的要素」で構成された「紋章」であるかのようだ。メンデスのボンド映画に対するアプローチが「シンボリズム」であるなら、この紋章が象徴するのは、「ボンド映画」そのものであろう。つまり、「ボンド映画」のなかで「ボンド映画」そのものを象徴しているのである。ちょっと意味が分からないが、とにかくそういうことである。だから本作は、従来のボンド映画のような娯楽的な明快さがありながら、万華鏡のように複雑な印象を与えられるものとなっているのだ。この狂気をともなった驚くべき「不毛さ」は、同時に、途方もなく美学的で退廃的な試みであるともいえるだろう。そしてそこではシリーズ全体の持っている、ある種の「鈍重さ」すらをも引き受けているように見える。
今までのボンドの要素をひとつにまとめたダニエル・クレイグ演じるボンドが、終盤にして圧倒的な力を手にすることになるのは、必然であるかもしれない。拳銃ひとつを手にして悪漢を追うボンドの神がかった強さは、まさにシリーズ最強といっていいだろう。新米007として始まったクレイグ・ボンドが、とうとう「象徴」となり、人智を超える「概念」になった瞬間である。
ここに形づくられたものがシリーズの要素を総動員するジェームズ・ボンドの紋章であるならば、それに対抗するのは、悪の組織「スペクター」のタコを模した紋章である。作中でとうとう正体を現した、スペクターの首領である、悪の天才エルンスト・スタヴロ・ブロフェルドは、今までのクレイグ・ボンドの戦いについて、「私だよ、ジェームズ。全部私がやった」と、驚くべきことを言い出す。ほぼ何の説明もなく、とにかくブロフェルドが全てを闇で操っていたという。納得し難いものの、とにかくそういうことであるらしい。しかし、このアバウトさは、まさしくボンド映画らしいほほえましさがある。このような、おそらく後付けの設定が意味するものは、劇中でも図示されるタコの姿をシンボライズしようという意図であろう。ブロフェルドが頭となり、今までの悪役たちがその脚を構成するという形象は、頭が残っている限り、脚は永久的に再生し生え代わるという、組織の強固さを示している。本作が表現するものは、具体的な肉体や現実感が排された、紋章対紋章、概念対概念の対決なのである。しかし逆にいえば、全ての原因となるタコの頭をつぶすことができれば、クレイグ・ボンドの全ての戦いは終結を迎えるはずだ。