成馬零一の直球ドラマ評論

『ど根性ガエル』が描く、人間とキャラクターの別れーー脚本家・岡田惠和が追求するテーマとは

 『ど根性ガエル』では、『泣くな、はらちゃん』で保留とされた、人間がキャラクターとの別れ(あるいは死)をどう受け入れるのか。が、描かれている。

 第9話。いつものようにピョン吉とひろしたちのドタバタが描かれたのち、最後にピョン吉の体がシャツからはげ落ちる。朝、起きたひろしの元にあるのは、ピョン吉の後がシミのように残るシャツだけ。ピョン吉を探し回った後で家に帰ったひろしは、そのシャツを着て、いつものように京子ちゃんたちに会いに行く。ピョン吉の死に誰もが気づいているのだが、誰もそのことを口にしない。物語としてはひろしを気づかってピョン吉の死に触れないようにしていると取るのが普通だろう。だが、このシーンを見ていると、ピョン吉は最初からいなかったのではないか? と邪推したくなってしまう。

 ザ・クロマニヨンズの「エルビス(仮)」が流れるエンドロールでは、ピョン吉がいないシャツを着ているひろしが登場する。多くの視聴者は、これを最終話の映像だと思っていたのだが、もしかしたら、こっちが本当の現実で、みんなひろしのためにピョン吉がいるフリをしていたのではないだろうか? まだ最終話があるので、ぴょん吉が「どっこい生きてた」という可能性も否定できないが、ピョン吉不在のシャツが、壮大なネタ晴らしに思えてくるのは、そもそも『ど根性ガエル』というドラマ自体が、現実には存在しないピョン吉というキャラクターに命を吹き込むという一点に向けて、役者の演技や映像が作りこまれていたからだろう。

 また、ピョン吉の不在と同時に描かれるのが、お神輿の場面なのだが、それはピョン吉の葬儀であると同時に神様として祭っているように見える。第7話ではピョン吉を治療するために富士山の麓にある蛙神社をひろしたちが尋ねる場面があり、物語の節々に宗教的モチーフが登場する。

 つまり、『泣くな、はらちゃん』と同様、本作もまた、キャラクターと人間の関係を神と人間の関係として描き出しているのだ。

 特定の信仰を持つ方は否定するかもしれないが、神様というのは誰かが信じるからこそ成立する存在だ。一人しか信じていなければ妄想だが、複数の人間が信じれば実在するに等しい存在となる。仮にピョン吉が虚構の存在だったとしても、ピョン吉がいることで豊かなものに変化したひろしたちの日常を、私たちには簡単に否定することはできないはずだ。

 ゴリライモと握手した後に、意外とおいしいゴリラパンを食べながらそんなことを考えた。

■成馬零一
76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)がある。

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