なぜテレ朝の模型だけリアル? 元アナ松井康真が語るプラモ愛とタミヤの教え「好きなことを真摯に続けた」

 誰もが幼い頃、夢中になって時間を忘れた趣味をひとつは持っているのではないだろうか。筆者の世代でいえば、ミニ四駆やハイパーヨーヨー、たまごっち、初代ゲームボーイといったブームがそれに当たる。

 そんな子ども時代の“没頭”を大人になっても突き詰め、人生を大きく切り拓いた人物がいる。テレビ朝日のアナウンサーとして活躍する傍ら、プラモデルのコレクター活動を極め、最終的には憧れのタミヤで「模型史研究顧問」に就任した松井康真だ。

 『私とプラモデルの半世紀 大事なことはタミヤが教えてくれた』(中公新書ラクレ)を上梓し、“趣味を仕事に活かす”生き方を体現する松井に、プラモデルに魅了された原点からアナウンサーを志した経緯、そしてタミヤという存在が自身の人生に与えた影響について話を聞いた。

模型店がない町での“情報格差”がプラモデルへの情熱を深めた

松井康真『私とプラモデルの半世紀 大事なことはタミヤが教えてくれた』(中公新書ラクレ)

――さまざまな「遊び」や「趣味」がある中で、松井さんがプラモデルに“ハマった”理由を教えてください。

松井康真(以下、松井):私は現在63歳ですが、昭和40年代前半から半ばに幼少期を過ごした人にとって、プラモデルはまさに遊びの王道でした。当時を知る世代であれば、多くの方が共感されることだと思います。

 今も昔も、子どもの外遊びといえば野球やサッカーなどが主流です。しかし文化系の遊びとなると、今の若い世代ならスマホゲーム、40〜50代ならファミコンが当たり前の存在だったように、私たちの世代にとってはプラモデルが自然に生活の中に溶け込んでいたんですね。

 そんななか、私が生まれ育ったのは、富山県内でも人口1万人ほどの小さな町でした。東京から見ればもちろん、県内でもかなりの田舎です。当時はテレビも民放は2局しか映らず、今でいう“情報格差”の大きな環境でしたが、当時はそれがごく当たり前の日常だと思っていたんです。

 私の町にはプラモデル専門店どころか、おもちゃ屋も全くなかったのですが、文房具店や本屋、時計屋、駄菓子屋などではプラモデルが普通に売られていました。

 ただ、都会のように模型店や百貨店で豊富な商品やカタログ、新製品情報に触れる機会などはほとんどありませんでした。そのため、どんなシリーズが存在するのかすら分からないまま、お店の棚で偶然見つけたものを買っていたんですよ。

 私が最初に買ってもらったのはタミヤのミニジェット機シリーズでしたが、当時はシリーズ全体の構成も知らず、番号の意味も分かりませんでした。それでも、箱の横にある説明や番号を頼りに、手元のノートに1番、2番と少しずつ鉛筆で書き足していくのが本当に楽しかったんです。

 「何があるのか分からない」からこそ、一つひとつ新しいキットを発見するプロセスは、まるで“宝探し”のような感覚でした。「いつかタミヤのミニジェット機シリーズを全部集めたい」という想いは、少年時代の私にとって何よりの夢であり、それがプラモデルを集める原動力になったと思います。

人生で初めて書いた手紙の宛先はタミヤだった

――小学生の頃にタミヤへ手紙を送った際、「子ども扱いせず丁寧な返信や対応を受けた」そうですね。

松井:ある日、購入したプラモデルに、樹脂が流れきっていない成形不良のパーツが入っていました。普通なら諦めてしまうところですが、「自分のミスじゃない」と思い直し、タミヤへ手紙を送ることにしたのです。当時、親に促されて書く年賀状を除けば、自分の意思で誰かに言葉を伝える手紙を書いたのは、それが人生で初めての経験だったと思います。

 「富山県の小学4年生です」「いつもタミヤのプラモデルを作っています」「このパーツだけこうなっていました」と拙いながらも一生懸命に文章を書いて、嘘だと思われないように不良品のパーツを同封し、手紙と一緒に送りました。

 投函後は、毎日学校から帰ると真っ先にポストを見に行く日が続きました。そして1週間から10日ほど経った頃、タミヤから茶封筒が届いたんです。中には正しいパーツが入っていたほか、子ども向けの文章ではなく、きちんとした大人の文章で書かれていたことがすごく印象的でした。

 しかも、その文書は当時の「青焼き」と呼ばれるコピーで印刷されていました。今のコピーとは違い、青い文字で印刷される昔ながらの複写方法です。姉からは「なんだ、コピーか」と言われましたが、子ども扱いするのではなく、一人のお客様として向き合ってくれた。その誠実な姿勢に心から感動しましたし、あの出来事があってから、タミヤへの愛着がより深くなりました。

ちなみに、小学生の頃にタミヤから届いた茶封筒は今でも大切に保管していますし、それ以外で届いた封筒も実は全部取ってあるんです(笑)。

「やるなら今しかない」理系からアナウンサーを本気で目指した覚悟

―― 一度は諦めかけた夢に向かって計画留年し、アナウンサー専門学校へ通う決意をした時の心境はどのようなものでしたか。

松井:アナウンサーは小学生の頃からの憧れで、中学時代には放送委員長を務めるなど、昔から「話すこと」が大好きでした。ただ、アナウンサーは狭き門であることは百も承知で、採用人数の少なさを考えれば、プロ野球選手になるよりも難しいことは理解していました。

 私は末っ子長男でしたから、将来は実家を継ぐために地元で働くつもりでした。大学も理系の大学に進学し、研究室に入って大手企業への就職を目指すことも考えていたんですね。

 しかし大学3年の終わり頃に、「本当に自分が富山でやりたい仕事は何だろうか」と今後の進路を見据えたときに、アナウンサーという選択肢を思い出したんです。富山には北日本放送という放送局があり、そこでアナウンサーになることができれば、自分の夢を持って富山で働けると思ったのです。その一方で、「普通に試験を受けても、絶対に受からない」ということもすぐに分かりました。

 さらに私は理系の学生でしたから、文系の学生に対して強いコンプレックスを抱いていました。今思えばただの思い込みですが、当然ながら共通語のアクセントも一から身につけなければなりません。

 このままでは単なる「記念受験」で終わってしまう。そんな危機感から「勝つための準備をしよう」と決心しました。親に相談しても反対されることはわかっていたので相談せず、あえて大学の“計画留年”を選び、「やるなら今しかない」と覚悟を決め、進路を大きく切り替えたんです。

 そうしたなか、文系と勝負になるレベルまで自分を高めるため、あらゆる情報を人づてに集める中で「アナウンス専門学校」の存在を知り、すぐに電話で募集時期や受講料などを確認するところから始めました。

 学校の授業は週1回の1時間半のみで、3か月で終わると聞いていましたが、初回から先生に「授業に出るだけでアナウンサー試験に受かると思っているのか」と言われ、そこから自主練習に本気で取り組むようになったんです。

――自主練習をするなかでのエピソードがあれば、ぜひ教えてください。

松井:大学を留年し、退路を断ってアナウンサー試験に挑む状態だったので、「やれることは全部やろう」と心に決めていました。その一環として、先生から教えてもらった、電車内で情景描写をする実況の練習に取り組んだのです。今思えば恥ずかしいようなことでも、自分に酔っていた部分もあり、これくらいやるのは当然だと思い込んでいましたね。

 ある日、地下鉄の車内で、同年代の女性が先輩と思われる男性2人に少し離れて見守られながら、劇のセリフのように大声を張り上げて役になり切っている場面に出くわしました。おそらく劇団の新人が度胸をつけるための練習だったのでしょう。その姿を見て、「自分だけがこんな練習をしているわけではない」と勇気づけられたのを覚えています。

 後日、電車内で録音した実況の音声を聞いてもらおうと、先生のもとへ持っていった時のことです。「本当にやってきたのは、君が初めてだよ」と言われ、逆に自分の方が驚いてしまいました。

 後から知ったのですが、先生は何年か経った後も「過去に電車内で実況録音をしてきた生徒がいた。それが今、テレビ朝日の『ニュースステーション』に出ている松井くんだ」と、生徒たちに紹介してくれていたそうです。

モデラーではなく「報道のプロ」として自作模型を作っていた

――報道現場で自作模型を活用する中で、メディア視点とモデラー(プラモデルを組み立てる人)のこだわりを両立する上で意識していたことは何ですか?

松井:テレビ用の報道模型の制作は、痛ましい事件や事故を扱うことが多く、決して楽しいものづくりの時間ではありませんでした。そのため、「モデラー」としてではなく「報道で見せる側」のプロとして、限られた時間の中でどこにこだわるかという割り切りが重要でした。

 すべてを完璧に作り込むのではなく、事件の現場を印象づけるポイントを見極め、再現するといった判断が必要になるわけです。また、既製品のプラモデルをそのまま使えるケースはほぼ無く、基本は改造や図面を一から起こす作業が前提でした。しかし、その圧倒的な難易度こそが「他局には絶対に作れない」という自信にもつながったんですね。

 たとえ、表舞台に自分の名前が出ない模型制作であっても、「いかに現場の真実を丁寧に伝えられるか」に全力を注ぎました。全国で誰が見ているかわからない状況の中で、「事件からわずか5時間後なのに、なぜテレビ朝日だけリアルな模型が出せるんだ?」と思わせることが大事でしたし、モデラーとして強くこだわりを持っていた部分かもしれません。

――自作模型づくりの中で最も印象に残っている作品を教えていただきたいです。

松井:本でも触れましたが、東日本大震災での福島第一原発事故の状況を正確に伝えるため、原発の模型を作ったことがとても強く印象に残っていますね。図面をもとに試行錯誤を重ね、実働120時間以上を費やして完成させた経験は、今なお強く記憶に刻まれています。

 また、湾岸戦争の際には、アメリカ軍やイラク軍の戦車をすべて自作の模型で再現したことがあります。砂漠仕様なので、通常の車両とは装備が違っていたりするんですが、そういう細かいところまで可能な限り忠実に作り込んだんです。

 その後、報道特別番組に出演した際にはその模型を持参し、「バグダッドにアメリカ軍のM1戦車が進軍した時に、向こう側のイラク軍はT-62とT-72がやってきて.....」という戦況を解説しました。

 ところが別の民放局でも、同じようにバグダッドへ進軍する戦車の解説をしていたのですが、番組で使われていたのは第二次世界大戦時のドイツ軍の4号戦車の模型でした。それを見た戦車ファンから「バグダッドにドイツの4号戦車が並んでいるぞ」と大きな話題になり、結果的に「テレビ朝日はちゃんとした模型を使っていて正確だ」と評価してもらえるという出来事がありました。

 それ以来、局内でも少しずつ協力者や理解者が増えていきました。やがて、番組のプロデューサーやディレクターが自分より若い世代になっても、「困ったときは松井さんに聞こう」という流れができ、面識のないディレクターからも「模型をお願いできますか」と連絡が来るようになりましたね。

「田宮俊作」という偉大な人物との出会いが、かけがえのない財産に

――生涯にわたって親交を深めた「タミヤ」の存在は、松井さんにとってどんな存在ですか?

松井:タミヤという会社そのものへの思いはもちろんですが、私がずっと憧れ続けてきたのは、田宮俊作さんという一人の存在でした。自動車界の本田宗一郎さん、あるいは野球界の大谷翔平さんのように、誰にとっても憧れの存在である人物が、私にとっては田宮俊作さんだったのです。

 子どもの頃から模型が好きで、限られた情報の中で自分なりに必死に調べたり、古い資料を集めたりするうちに、いつしか「タミヤの歴史」そのものに強く惹かれていきました。その後、田宮さんに直接お会いできる機会に恵まれたのですが、最初はお会いできるだけで緊張と感動でドキドキでしたよ。全国の模型に関わる人間にとって、田宮俊作さんにお会いできるというのは、それくらい特別なことでした。

 でも、実際にお会いしてみると、田宮さんは本当に気さくな方だったんです。年に一度の静岡ホビーショーや全日本模型ホビーショーなどでお会いするたび、子どもの頃の記憶や資料をお見せすると、「よくそんなこと覚えてるね!」「なんでこんなもの持ってるの?」という風に驚いてくださって。

 そこから、単なる「模型好きのアナウンサー」と「タミヤの会長」という関係ではなく、模型の歴史を共有できる対等な関係へと変わっていきました。私と田宮さんは31歳も離れていますが、子どもの頃からの憧れの人と模型の歴史を語り合える仲になれたことは、私にとってかけがえのない財産となりました。

 そして何より感銘を受けたのは、田宮俊作さんという偉大な人物が、まったく威張ることなく接してくれたこと。だからこそ、私はますますこの人に惹かれていったんだと思います。

好きなことを真摯に続けることの重要性

――第二の人生を楽しむ同世代、趣味を仕事に活かしたい若い世代へ向けてメッセージをお願いします。

松井:子どもの頃から、「将来このプラモデルを仕事にするぞ」なんてことは微塵も考えていませんでした。むしろ、プラモデル作りが楽しくてしょうがないから、ただひたすらに極めていっただけなんですよ。

 本当に自分の好きなことを真摯にやり続けていったら、その先に人や情報、ネットワークが自然と広がっていったんです。だから、今何かをやっている若い人たちも「こんなことをやっていて何の意味があるんだろう」なんて、あまり考えなくていいと思います。

 私はもう60代になって、サラリーマンとしての仕事は終わりました。でも、「毎日やることがなくて困っている」ことは全くなくて、逆に朝起きた瞬間から「今日は何をしよう」とワクワクしています。

 3Dプリンターの発展は目覚ましく、誰でも独自の模型が簡単に作れる時代が来始めています。そうなると、「プラモデルを作る意味がなくなるのではないか」と言われることもあるでしょう。

 でも、私はそれでやめるつもりはありません。技術がどれだけ進歩しても、自分が手を動かして作ることが楽しいなら、それでいいのです。「これから20年はプラモデルを楽しむぞ」と思いながら、日々の生活を送っていますね。

 大切なのは、自分が「これだ!」と思ったことを心から楽しんで続けること。好きなことを一生懸命続けていると、いつの間にか人が集まってきて、知識が積み重なり、誰かの役に立つようになります。私自身、そうやって好きなことを貫いてきた結果が、今の仕事やかけがえのない人脈へと繋がっているのだと感じています。

■書誌情報
『私とプラモデルの半世紀 大事なことはタミヤが教えてくれた』
著者:松井康真
価格:1,056円
発売日:2026年8月7日
出版社:中央公論新社
レーベル:中公新書ラクレ

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