『オークストリートの異変』の恐竜は何を変えたか? 一晩で失われた、豊かで幸せなアメリカの風景
ライター・編集者の速水健朗が時事ネタ、本、映画、音楽について語る人気ポッドキャスト番組『速水健朗のこれはニュースではない』との連動企画として最新回の話題をコラムとしてお届け。
第45回は、映画『オークストリートの異変』について。
『オークストリートの異変』でもっとも感情移入した人物は?
映画『オークストリートの異変』を見た。初日の感想が絶賛の嵐だったため、翌日朝イチの回を予約し、すぐに見に行った。結果、大正解。おもしろいと断言できる映画だった。
冒頭すぐに、本作の舞台が現代ではないことがわかる。白い板張りの住宅、人々の服装、家の前に停まっている車を見ると、70年代か80年代前半くらいかなという雰囲気だ。やがて音楽が流れ始め、さらに年代が絞られていく。こういう映画で「これは何年だ?」と考えながら観るのも楽しみの1つなので、具体的な年代はここでは言わない。
『オークストリートの異変』は、アメリカの典型的な郊外住宅地に恐竜が現れる話である。ネットでは「怖かった」という感想も多い。そもそも、ホラー映画とパニック映画は何が違うのか。ホラー映画では、襲ってくる脅威や怪異そのものが怖い。一方、パニック映画では、目の前に巨大な脅威が現れたとき、人間の集団や社会がそれにどう対処するかが描かれる。恐竜が都市に現れるのであれば、政府機関や軍隊が出てくるかもしれない。だが、郊外の住宅街にはそれがやってこない。そこで恐竜に対処する単位になるのが家族である。
プラット家は4人家族だ。父と母をユアン・マクレガーとアン・ハサウェイが演じ、そこにティーンエイジャーの娘と、まだティーンには達していない息子がいる。この「普通の家族」というのが重要で、4人のうち誰か1人が圧倒的な主人公という感じでもない。
僕は中年男性なので、普通なら父グレッグの視点で見ることになる。妻は、アン・ハサウェイとはいえ、ちょっとうざい妻だ。結論を急ぐタイプで、何が起きても、さあどうするの? とか、早くなんとかして、とグレッグを急かしてくる。ネガティブ・ケイパビリティーが足りていない。
とはいえ、妻側の気持ちも理解できる。夫は自動車メーカーを解雇されたことを隠し、ピザの配達をしている。隠れてウイスキーを飲む癖もある。問題に正面から向き合わず、自分にも相談しない夫への不信感が募っているのだ。
妻にも家族に隠していることがある。地下室でタイプライターを使って小説を書いているのだ。中身は、家族を捨てて自由を得る女の話。かなり自分の願望を投影した小説なので、書いていること自体をひた隠しにしている。恐竜が現れる前から、この家族にはすでにひびが入っている。
そんな夫婦以上に、僕が感情移入したのは長女だった。恐竜に襲われ始めてから、家族は互いを気遣い、同じスペースで過ごす時間が増える。そんな中、長女が1人で車に入り、カーステレオでスティーヴ・ウィンウッドの「Valerie」を聴く場面がある。かかっているのは、たわいのないシンセポップ。ここがもっともぐっとくる場面だった。
ティーンエイジャーにとって、ポップミュージックってこういうものだよな、と思う。家族と距離をとり、1人になりたい年代。その時期に人はポップミュージックと出会うのだ。曲はたわいのないものに限る。
普通のホラー映画なら、こうして勝手に1人になる行動は、危険の前触れとして使われる。突然何かに襲われる、というのがお約束である。ところが、この映画ではそうならない。ただの息抜きの時間として描かれる。
安息パート。だが、こういう何でもない時間があることで、彼女のことが急に気になってくる。この子にはひどいことが起きてほしくないな、と思ってしまう。なるほど、感情移入というのはこういうことか。
80年代の幸せそうな中流家庭が暮らす郊外住宅地
映画を見ながら、もう1つ気になったのが子どもたちの行動範囲のことだった。本作では、子どもだけで自転車に乗り、かなり遠くまで移動する。今なら親の送り迎えが前提になりそうな距離まで勝手に出かけていく。
80年代映画ではよく見る風景だ。『E.T.』でも『グーニーズ』でも、子どもたちは親の知らないところで勝手に動き回る。大人の管理から離れたところに、子どもだけの世界がある。
ところが本作では、恐竜が現れた瞬間、その行動範囲が一気に狭くなる。大人であっても外へ出ることは危険になり、自動車や武器なしには移動できなくなる。
これは、その後のアメリカの住宅街で長い時間をかけて起きた変化を思わせる。実際の治安だけではなく、親による監視の強化、送り迎えの一般化、安全管理の徹底によって、子どもが子どもだけで移動できる範囲は狭くなっていった。映画の中では、恐竜がそれを一晩でやってしまう。時代設定を80年代にしたことで、今の住宅街との違いが浮かび上がってくる。
そして、80年代を舞台にした理由はそれだけではない。
プラット家は、足元の家計には不安を抱えている。それでも、広い家、庭、ガレージ、2台の車という中流家庭の暮らしの形はまだ残っている。周囲にも同じような家が並んでいる。戦後のアメリカが作り上げた普通の中流家庭の生活が、風景としてはまだ当たり前に存在しているのだ。
その暮らしを支えてきたものの1つが、自動車産業だった。戦後のアメリカでは、郊外化の進展とともに自動車の保有が広がり、車は生活の中心となっていった。メーカーも、より大きく、より豪華で、より排気量の大きなエンジンを積む車を作り、それが豊かさの表現とされてきた。
ところが70年代のオイルショック以降、その前提が揺らぎ始める。燃費の悪さが問題になり、消費者はより小型で燃費のいい車を求めるようになった。そこへ日本車やヨーロッパ車が入り込んでくる。それまで成長を支えてきた大きさや豪華さが、むしろ弱点になっていく。環境の変化についていけなくなったアメリカ自動車産業は、どこか恐竜の姿とも重なって見える。
父グレッグが働いていたのが、まさにその渦中にあったクライスラーである。グレッグはクライスラーを解雇されている。
70年代末から80年代初頭にかけて、クライスラーは倒産寸前まで追い込まれた。そこへフォードから移ったリー・アイアコッカが経営再建を進め、政府の融資保証も受けながら会社を立て直した。ただ、その過程では工場閉鎖と大規模な人員削減も進められた。映画がわざわざクライスラーという実名を出していることには、こうした時代背景も重なって見える。
もちろん、この映画の一件のあとに、グレッグはまた自動車産業の仕事を見つけることができるかもしれない。だが、それが家族にとってのハッピーエンドなのか。以前と同じ賃金を得て、同じように家を持ち、車を2台持ち、家族を養えるとは限らない。製造業で働けば、中流家庭として安定した生活を送ることができる。そんな戦後アメリカの前提そのものが、この時期にはすでに崩れ始めているのだから。
幸せそうな中流家庭が暮らす郊外住宅地。今振り返れば、アメリカが豊かで幸せそうに見えた時代の光景そのものである。その街に、恐竜が現れる。映画の作り手なら、たしかにやってみたくなる設定だろう。