東野圭吾が最後に描いたガリレオの“終活”とは? 遺作となった新刊『永遠の記憶』を読む

 東野圭吾が大腸がんのため7月23日に死去したと27日に報じられた際には、大変驚いた。少し前には、文藝春秋から小説新作のプルーフ(簡易見本)が送られてきていたのだ。ゲラのチェックなど書籍化に向けた作業を、著者がつい最近まで行っていたことが察せられた。その新刊『永遠の記憶』が、8月5日に発売された。天才的な物理学者・湯川学が探偵役として活躍するガリレオ・シリーズの誕生30周年を記念する作品である。訃報に触れた今読み直すと、「ガリレオ、最後の謎」と銘打たれた同作は、著者が自身の退場を意識しながら書いたものだと感じられる。

 ガリレオ・シリーズでは初期には草薙俊平が、次いで内海薫が刑事として、難事件と対決する湯川のパートナーになった。湯川の科学知識や論理的推理と警察の捜査の共同作業で解決にあたったのだ。今回の『永遠の記憶』では、内海薫が刺され、怪我ですんだものの入院せざるをえなくなる。犯人の70歳ほどの老人は、飛び降り自殺を図ったが失敗し、取り調べを受ける。だが、黙秘を貫き、動機や背景を語らない。捜査で内海に恨みを抱く若い女性の存在も浮かぶが、老人との関係は不明だ。その女性は復讐として、内海にある究極の選択を迫る。

 内海の危機に対し、先輩の草薙が気づかいをみせ、草薙の大学時代からの友人でもある湯川が謎の解明に乗り出す。このシリーズらしい連携といえるが、彼らが年齢を重ねた人間として描かれているのが印象的だ。内海は結婚して戸籍上の姓は「内海」ではなくなっており、いまや息子を持つ母である。作中で湯川は、20年近く前に彼女と初めて会った時のことをふり返る。当時と比べながら、今の内海は警察だけでなく彼女の家族にも必要とされていると草薙と話す。

 小説冒頭で内海は、家族の夕飯の食材を買うためスーパーを訪れる。野菜売り場や肉売り場などをまわるうちに、刑事のセンサーで不穏な男の存在に気づく。だが、息子が好きな「ピタゴラチョコ」を見つけて手にとり、清算を終えた時にナイフで切りつけられる。エコバッグで防御するものの、脇腹を刺されてしまう。この場面では、内海の刑事としての顔と妻や母としての顔が、入り混じっている。後に内海は、彼女に復讐心を抱く女性と対峙しながら、自身が過去に手がけた事件と再び向きあわなければならなくなる。刑事としての判断と母という立場での思いが、せめぎあう状況に追いこまれるのだ。その際、内海は誰かの意見にしたがうのではなく、自身で判断を下す。彼女は成長したのである。

 『永遠の記憶』で、内海が刺された事件をめぐって展開される第一部は、「履歴る たどる」と題されている。このシリーズは連作短編集『探偵ガリレオ』からスタートしており、各章のタイトルに「転写る(うつる)」、「壊死る(くさる)」など、初期からしばしば当て字が使われた。「履歴る たどる」は、その流儀を継承したものであり、黙秘を続ける老人、復讐心を抱く女性、そして内海という各人の人生の「履歴」を掘り起こすような物語だった。

 それに対し、第二部は「終活る たどる」と題されている。第一部では刑事と母という2つの立場で内海が難しい判断をしたのに対し、第二部では湯川と草薙が転機を迎える。第一部で黙秘していた老人の持ち物が、彼ら2人が過去にかかわった事件に関連したものらしいとわかってくるからだ。内海の先輩である草薙は、現在は管理官になっており、刑事の現場の第一線にはもういない。定年にはまだ時間があるものの、その過去の事件とむきあうことを彼は「終活」と表現する。草薙と大学で同期だった湯川にとっても、その事件には「忘れてはいけない謎」があり、解き明かすことはやはり終活となる。

 天才的な物理学者として登場した湯川学は、科学知識が豊富で論理的思考をするがゆえに変人のイメージがあった。シリーズの初期には、科学的なトリックが焦点となる作品も多かった。だが、『永遠の記憶』で再び触れられる20年前の事件を契機にして、それまで感情を無視していた湯川は、心も科学だととらえるようになり、キャラクターが変化していったのだ。

 『永遠の記憶』はシリーズ誕生30周年企画ではあるが、湯川と内海の20年前の出会い、20年前の事件など、作中で「20年」という期間にしばしば言及される。20年前といえば、東野作品をめぐってミステリ業界である論争が起きた頃だが、本作は当時の論点の1つに応答したようにも読める。

 もともと「履歴る」、「終活る」は、2024年に行われたタイトル募集企画で優秀賞に選ばれたものだった。結果的に内海の履歴、湯川と草薙の終活という、読者に長く愛されてきたキャラクターたちを深掘りする、シリーズの幕切れにふさわしい物語とタイトルになったように思う。

 小説の最後の一行には、解き明かした事件に対する距離感を示した湯川のセリフが書かれている。それは、著者自身のセリフでもあるように感じられるが、ミステリ作家が最後に残す一言として、これくらいかっこいいものはなかなかないだろう。

■書誌情報
『永遠の記憶』
著者:東野圭吾
価格:2,310円(税込)
発売日:2026年8月5日
出版社:文藝春秋

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