美学者・伊藤亜紗が語る、割り切れない感性の価値ーーSNS時代に「正しさの呪縛」から自由になる生き方とは

伊藤亜紗『身体の美学入門 感性から捉えなおす人間の本質』(中公新書)

 美学者の伊藤亜紗が『身体の美学入門』(中公新書)を刊行した。他者の身体に対する「美醜」の感覚の歴史を紐解き、言葉で割り切れない人間の「感性」を捉え直す新しい入門書であり、社会の規範からこぼれ落ちる私たちの「割り切れなさ」を肯定する鋭い批評の書でもある。

 過剰な「正しさ」を求める現代社会がもたらす生き苦しさの正体とは。言葉による議論が分断を生むなか、物質や感覚を媒介にしてどう他者と合意形成を図るべきなのか。そして、分かりやすい属性で自他をラベリングし合うSNS社会の息苦しさから脱する方法とは何か。創作におけるAIの意外な活用法なども交えながら、伊藤に聞いた。

割り切れない謎と曖昧さを追い求め美学の世界へ

伊藤亜紗氏

ーー伊藤さんはなぜ「美学」研究の道を志されたのでしょうか。

伊藤亜紗(以下、伊藤):わたしはもともと生物学者を目指していて、大学にも理系として入学したんです。当時は「ヒトゲノム計画」が真っ最中の時代で、情報として生物を捉える要素還元主義の考え方が中心でした。先生方は「DNAの塩基配列を読み解くぞ」と盛り上がっており、生物を記号として処理していくようなアプローチが全盛だったのです。

 しかし、私にはどうしても「何かが違う」という違和感を拭えませんでした。生物を記号に還元することで、果たして生きているとはどういうことなのか、生命とは何なのかが分かるのだろうかと。私が知りたかったのは、そのような要素に切り分けられない、生命そのもののあり方だったのです。

 そんなもやもやを抱えていた大学3年生のとき、たまたま美学の入門書を手に取る機会がありました。そこには、美学とは「割り切れないもの」や「いわく言い難いもの」を対象とする学問である、と書かれていたのです。それを読んだ瞬間、「私が探していたのはこれだ」と直感しました。

 私は昔から、謎が綺麗に解けて物事がすっきりと整理されてしまうことに、どこか物足りなさやがっかり感を覚えてしまうタイプでした。それよりも、永遠に謎が解けそうにない、曖昧で、ずっと噛み続けられるガムのような対象にこそ、強く惹かれる性質だったのです。そして、その謎は今でも解けていません。

ーー本書はなぜ「身体」の美学なのでしょうか。

伊藤:今までの個人的な研究でも身体については扱ってはいましたが、それは身体の主観的な感覚についての研究でした。今回はそうではなく、外側から身体を見るもう一つの別の身体があるときに何が起こっているのか、という関係性をテーマに据えたかったのです。

 私たちは、他人の身体を見たときに「素晴らしい」「魅力的だ」と感じることもあれば、逆に嫌悪感を抱くこともありますよね。こうした反応は一見するととても主観的な判断に思えます。しかし、こうした感性的な反応を分析していくと、実は社会の根っこにあるルールや構造を支配していることがわかるのです。

ーーどうして人間の感性的な部分と向き合う必要があるのでしょうか。

伊藤:私は人間の社会がもっと生き生きとしたものになってほしいと思っています。

 現代の社会を見渡すと、人間の中にある感覚的な領域を、あってはならないものとする傾向が強くなっているように感じます。言語化可能なルールや、倫理的な正しさといったものが常に上位に置かれ、非言語的で感性的な部分に対しては、社会全体が「ちょっと黙っていろ」と言わんばかりの無言の圧力をかけているように見えます。しかし、そういった感覚から目を背けることは非常に危険なことではないかと思います。

 例えば、意識のレベルでは「私は人種差別をしません」と表明していても、無意識の身体レベルでは、特定の他者とすれ違った瞬間に体がきゅっと強張ってしまう、というようなことが起こり得ます。そして、そういった本音は言葉を交わさずとも相手に伝わってしまうものです。現代社会は人間を少し立派なもの、言葉だけでコントロールできるものと思いすぎていると感じます。だからこそ、言葉で片が付かない感性の領域をきちんと見つめ直さないと、人間本来の生き生きとした感覚が失われてしまうのだと思います。

規範から「逸脱」し、美しいものに「降伏」する感性の豊かさ

ーー確かに誰かを見て何らかの印象を抱くことは日常的なはずのに、それについて深く考えたことはありませんでした。

伊藤:いまお話ししたのは嫌悪感についてですが、誰かに魅力を感じることもありますよね。本書では、誰かの魅力に感じ入ってもっと知りたいと思う知的な心の動きを、プラトンの『饗宴』に倣って「エロス的プロセス」と呼んでいます。現代は、こういった欲望にストッパーがかかりがちで、衝動的に行動することが非常に難しくなっています。さまざまな価値観を尊重することは重要ですが、その圧力が強すぎて、「自分はこれがいい!」と感性的な判断がしにくくなっている。もちろん、衝動に身を任せることには危険がともないますが、そうした感性の力を肯定していくような社会であってほしいのです。

ーー本書でそういった心の動きを「逸脱的」と表現されたのはなぜですか。

伊藤:私はぬいぐるみが大好きで、先日ドイツに行ったとき、いまヨーロッパで流行っているナマケモノのぬいぐるみを買ってきたんです。ぬいぐるみに興味のなかった私の息子がそれを見るなり、恋に落ちたように「これ気に入った」とそのぬいぐるみに食いついたんですね。これってすごく「逸脱的」な経験だと思うんです。自分の中でふと扉が開かれるような、それまで全然自分と関係しないと思っていたものがいきなり関係してくる、まさに出会いのような感覚です。

 感性には、対象を「こうあるべきだ」と捉える保守的で規範的な側面だけでなく、そこから外れていく「逸脱的」な側面もあります。いかに自分の中の頑なさを自覚しつつ、またいかにそれを解放する力を信じられるかがいま大切なのかなと思います。

ーー何かに魅力を感じて自分が変わってしまう、そんな機会自体がいま減っている気もします。

伊藤:思想家のジョン・デューイが、対象にうっとりすることを「surrender」と表現しており、わたしはこれを本書で「降伏」と訳しました。美しいものを前にして、感動のあまり「参りました」という感じですね。

 おっしゃる通り、私も現代ではこうした「降伏」の体験が意図的に排除され、好まれなくなっているように感じます。その背景にあるのが、価値判断を留保する「正しさの呪縛」と、過剰なまでのや「説明責任(アカウンタビリティ)」の風潮です。あれにもこれにも等しく価値があるという相対主義が正義になってしまうと、特定の何かに吸い寄せられるような経験は避けられるようになってしまいます。アート作品にも注意書きが添えられることが増えました。「この作品には強い刺激が含まれます」といった具合です。もちろん、配慮としてそれは正しいことですし、必要なケースもあるでしょう。しかし、表現の場が予測可能性の範囲内に収められてしまうと、人間が自らの意志を超えて圧倒されてしまう機会は消えてしまいます。

 60年代のアート作品を見ると、いかに人々の感性が大らかだったかがわかります。例えば、アメリカの現代美術家、ロバート・ラウシェンバーグに「オープンスコア」というハプニング作品があります。男女のテニス選手が室内コートでラリーを続けるのですが、ラケットでボールを撃つたびに会場に大きな金属音が鳴り響き、照明がだんだんと暗くなるんです。今だったら、パフォーマンス前に「会場が暗くなるので足元にお気をつけください」とコーションが出るでしょう。もちろん安全のためには大事ですが、そうアナウンスしてしまうと作品に圧倒される機会を失ってしまうかもしれません。

 人を強烈に感動させることは、本質的には暴力的な要素があると思います。ただ、現代のシステムは、そうした予測不能な揺さぶりが起こらないように押さえつけてしまう力も強くなっています。その結果、私たちは何かに圧倒されて「降伏」するという、深く豊かな感性の経験から遠ざけられているのではないかと思います。

感性を模型で翻訳する

ーー伊藤さんの最近の研究についてもお聞かせください。

伊藤:合意形成について感性がどのように関わりうるのか、ということを研究しています。具体的には会議のノウハウについての研究です。

 会議というものは、非常に不思議な営みです。もし最善のオプションを抽出するだけなら、私たちはわざわざ集まる必要はありませんし、それこそ今ならAIに聞くのも一つの方法でしょう。それなのに、なぜか私たちは、時間と労力を割いて、生身の人間同士で集まりたがる。わざわざ感があるし、とてもフィジカルで、一つの結論にみんなでベットするーー会議ってAIと対極的なものだと思うんです。

ーーとても興味深いですね。具体的な取り組みがあれば聞いてみたいです。

伊藤:四国にある「早明浦(さめうら)ダム」をめぐって、「山のフタをあける」プロジェクトを進めています。早明浦ダムは高知県にあるのですが、そこで貯水された水の多くを実際に使っているのは香川県の人たちです。しかし、今ではダムが老朽化し、山の手入れも十分に行き届かなくなって荒廃しつつあります。ダムの周辺に暮らす高知の人たちからすれば、香川の人たちも巻き込んで、一緒にこれからの山のあり方を考えていきたい。しかし、地理的にも離れていますし、香川県の住民にとって当事者意識を持つことは非常に難しいのが現実です。

 これを言葉だけで「あなたたちが使っている水は高知の山から来ている」と伝えても、人は動きません。そこで私たちは、もっと感性的なレベルで、異なる立場の人たちが繋がれるような方法を模索しました。具体的には、早明浦ダムに関わる、さまざまな立場の人たちにインタビューを行い、彼らがそれぞれ山をどのような視点で見ているのかを、100円ショップで売っている日用品を使って、「模型」として表現してもらう、というワークショップを行いました。

樹木医による模型(写真提供:伊藤亜紗)

ーー言葉ではなく、まずモノを使って自分の感覚を伝えるというわけですね。

伊藤:例えば、樹木医さんは、山を一種の巨大な生態系システムとして捉えています。生命のエネルギーがどのように循環しているか、という構造が頭の中に見えている。樹木医さんは東京で研究され、地域おこし協力隊として現地で活動している外部の人間なので、よりピュアに自然として山を捉えていることが模型からもわかります。

 一方で、地元で生まれ育った役場の方に同じように山を表現してもらうと、全く違う模型が完成しました。毛糸玉に竹串がたくさん刺さっているような構造です。その意味を尋ねると、どうやら彼らは山の存在をよく思ってはいないようでした。まず、彼は山を人工物ととらえている。この地域の山は人の手によって植林されたもので、戦後、将来の財産になると信じて木が植えられたのです。しかし、今や林業は衰退して木は売れず、手入れをする人手もなく、山は荒れる一方で維持費ばかりがかかる。それが山に対するネガティブな感情の理由です。

 地元で活動する猟師さんが作った模型には、数字のカードがたくさん貼られていたんです。猟師というと、山に分け入って獲物を狩るイメージがありますが、今は罠に獲物がかかるとメールが届くシステムになっているそうです。メールが来たら山に行って、獲物を傷つけないように罠から外し、素早く解体して出荷する。猟師さんにとって山は、命のドラマの場ではなく、いかに効率的に数字をあげるかというシステム化された現場だったのです。

 言葉で意見を交換すると対立してしまいそうですが、それぞれの全く違う見方を模型を使って翻訳をすることで、それを元に建設的な議論ができるんです。

ーーなんだか濱口竜介監督『悪は存在しない』の、グランピング施設説明会を思い出しました。言葉による正しい議論が、かえって分断を生んでしまうのに対して、物質や感覚を媒介にすることで、お互いの「割り切れない本音」をそのまま共有できるようになるのですね。非常に示唆に富む取り組みです。

伊藤流、AIの使い方

インタビューは東京科学大学の学外共創拠点「もしも:まちと未来の実験室」にて行われた。

ーー伊藤さんは研究でAIを使われていますか。

伊藤:使っていますよ。

ーー具体的にはどのように使っているのでしょう。

伊藤:私がディレクターを務めている「DLab⁺」という組織で、人類が火星に移住したときにどういう社会を作るのか、ということをみんなで議論して、その内容を小説に落とし込んだのですが、その際にAIを使いました。

 研究内容を小説にするのがおもしろく、私も原稿を書く際に、一度小説に起こしてから論文を書いています。

ーーそんな使い方は考えたこともありませんでした! とても面白そうですが、どのようなメリットがあるのでしょうか。

伊藤:さいきん私は『新潮』という雑誌で連載を始めたのですが、そこでイスラエルの死後生殖について書きました。死後生殖とは亡くなった兵士の亡骸から精子を採取して子孫を残そうとする行為です。兵士が亡くなり、そこから精子を採取し、そしてどのように子供が生まれるのか、論文として整理する前にそのプロセスを一度小説にしてみると、何を考えなければいけないのかが明らかになります。フィクションにすることで、どういう境遇の人たちがいて、彼らにどう配慮して書いたらいいのかといったことが立体的にわかるんです。最初に論文で書き始めると概念で整理してしまいがちですが、小説にするとその状況に深く入り込め、自分の専門に関係のない論点まで出てくるので、研究手段の一つとしてAIを使っています。

ーー目から鱗です……早速試してみようと思います。

理想の人間像の方を疑い、修正していく

ーー本書第6章の、現代のSNSに対する見立てがとても鋭く、胸に刺さりました。誰もが自分の属性を言葉で開示し、白黒つけ合う「アイデンティティ・ポリティクス」の息苦しさに対し、言葉で回収しきれない「スタイル」を仮面にして隠れることは、時に防衛策になるのだと。この、分かりやすい記号として自分をさらけ出し合うSNS社会への違和感と、そこから降りることの価値について教えてください。

伊藤:今のSNS社会を見ていると、あたかも言語による記述の束だけで人間を表現できるかのような風潮があります。私はこういうアイデンティティを持っていて、こういう属性で、こういう立場です、とあらかじめ綺麗にラベリングをして表明することが求められる。これはある意味で、過激化するネットの言論空間の中で、マジョリティとして括られて「加害者」の烙印を押されないための、必死の自己防衛なのかもしれません。

 しかし、そうやって分かりやすい言葉の束だけで自分を説明しようとすると、その枠に収まらない豊かな部分がどんどん削ぎ落とされてしまいます。何より、言葉というシステムは、自分の中にある「矛盾」を許容してくれません。しかし、誰しも自分の中に矛盾を抱えているはずです。私の息子が自分の属性を「アンチぬいぐるみ」としていたら、ナマケモノのぬいぐるみを好きにならなかったかもしれません。自分の中に曖昧な部分を残していたからこそ、嫌いなものがいきなり好きになったりする。こういう、ものすごく生き生きとした経験が起こる可能性に私は期待したいのです。

ーー本書をこれから読む方にメッセージをお願いします。

伊藤:現代社会が要請する「理路整然としていて、説明責任が果たせて、正しく行動できる」という過剰にクリーンな人間像そのものが、今や私たち自身を深く苦しめる原因になっているのではないでしょうか。だとするならば、私たちはその理想の人間像の方を疑い、修正していくべきです。

 人間は、本質的に非言語的な領域をたくさん抱えていて、矛盾に満ちていて、時々理由もなく何かに魅了されて脱線してしまう、どうしようもなく「割り切れない部分」を持った存在です。そして、その予測不可能さや割り切れなさの中にこそ、他者と深く繋がり、人生を豊かに変えるための感性のきらめきが隠されている。そのことを、この本を通じて感じてもらいたいです。社会がもっと生き生きしたものであってほしいです。

■書誌情報
『身体の美学入門 感性から捉えなおす人間の本質』
著者:伊藤亜紗
価格:1,100円
発売日:2026年6月22日
出版社:中央公論新社
レーベル:中公新書

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