伊藤健太郎はゲイの青年・春日佑馬役をどう演じたか? 『100日後に別れる僕と彼』で魅せた視線の表現

生身の魅力で自動翻訳機能を搭載

 実写化俳優としての伊藤健太郎は、おそらく自動翻訳機能か何かを搭載しているのだろう。実写化俳優は原作漫画のキャラクターを生身の存在として(映画かテレビドラマの)画面上に翻訳しようと苦心する。そうしないとなかなかリアルには立ち上がらない。

 でも伊藤健太郎は違う。彼の場合は(もちろん実際には役作りを徹底しているが)ほとんど自動的にキャラクターが立ち上がってしまうところがある。人力での翻訳いらず。根っからの生身の魅力が、原作キャラをくっきりリアルに自動翻訳してくれる。その生身の魅力とは、たとえば彼の足に漲る。

 タイトル頭のカタカナ2文字を思わず「足」と変換したくなる、出世作ドラマ『アシガール』(NHK、2017)で伊藤は戦国時代を駆け抜ける若君役を演じた。原作は少女漫画作品。現代の女子高生が戦国時代にタイムスリップして若君に恋する。原作冒頭に颯爽と初登場する馬上の若君。伊藤は画面上にどう自動翻訳したか?

実写側に引き寄せる瞬発力

 そこで右足だ。ドラマ第1話中盤、現代から戦国時代にタイムスリップしてきた速川唯(黒島結菜)が、空腹のあまり地をはってキノコを食べる。その様子をどしっと地べたに胡座をかいた若君が見守る。そのとき、胡座をかく右足が小さくニョキっと顔をのぞかせ、強烈なまでに目を引く。強烈だがさりげない。

 草履だから生足だ。この生足が、画面を構成するほんの細部程度に映ることによって、漫画内のキャラクターだった若君を実写側に一気に引き寄せる。伊藤の生身の魅力とは、2次元を3次元に自動翻訳する精度であり、手際よく翻訳する瞬発力のことだ。

 『アシガール』の翌年に放送されたドラマ『今日から俺は!!』(日本テレビ系、2018)では、紫ウニのようなトゲトゲヘアーという漫画原作らしいエキセントリックなビジュアルでさえ、伊藤が演じるとたちまち画面上を引き締めながらキャラ立ちしていた。こうした翻訳能力が発揮されるメディアは漫画原作に限らない。人気小説のドラマ化作品の方がむしろ、伊藤の持ち味がより活性化する。

目には見えない視線の表現

 漫画は画と文字で表現し、小説は文字だけで表現する。漫画や小説を映像化する上での設計図となる脚本もまた、(撮影現場でスタッフがイメージしやすいように脚本家が参考画像を添えることなどを除いて)基本的には文字情報だけで書かれる。その情報を元に監督は演出プランを考え、俳優は役作りする。

 俳優が役作りする過程で脚本の前段階にある原作を読むことはあるが、特に小説作品に書かれた文学的な心理描写をそのまま演技としてアウトプットすることはできない。なぜなら、心理そのものは目には見えないからだ。もっというと、目には見えないものは映像には映らない。だから俳優は脚本のト書きで指定された動作や仕草を演じることになる。目に見える動作を通じた上で、そこに少なからず、原作固有の心情表現などを演技に落とし込んでいけるか、いけないか。演技にはそんな葛藤みたいなものがある。

 放送中のドラマ『100日後に別れる僕と彼』(毎日放送・TBS)でゲイの青年・春日佑馬役を演じる伊藤は、この葛藤を見事な瞬発力(つまり、翻訳能力)で克服している。たとえば、視線の表現。視線も当然、画面上には映らない。浅原ナオトによる原作小説には、佑馬が(元)彼である長谷川樹の方を「向いた」り、「見やった」といった表現が散見される。機嫌が悪そうな樹を見る、佑馬の動作の反復によって、チグハグする2人の関係性と心理上のせめぎあいをあぶり出すように描いている。

 ドラマ第2話の喫茶店場面でも、ディレクターから密着ドキュメンタリー番組の主旨を説明される佑馬が、樹(寛一郎)の方をチラチラ何度も見る。2人が並んで歩く帰り道の場面でも、けんかしたことを先に謝る佑馬が樹に真っ直ぐな視線を向ける。いずれの場面でも伊藤は相手の俳優に対して、顔を向ける動作をしているだけだ。その上で単純な(ように見える)動作の中にも役柄の微妙な心理を溶け込ませようとしている。それが伝わるか伝わらないか。伊藤の演技は、演技という表現そのものとせめぎあいながら、目には見えないはずの視線の表現を目に見える形に翻訳しようとしている。

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