【連載】つやちゃん「音楽を言葉にする」 第6回:フォーマットに応じて書く――媒体別の最適化・トーンの設計【後編】

 文筆家・つやちゃんが、インターネットやAIが発展してますます複雑化する現代の情報空間において、音楽を中心としたカルチャーについて「書くこと」「語ること」の意義やその技法を伝える新連載「音楽を言葉にする」。

 第6回は、前回に引き続き、媒体別の書き方について。(編集部) 

第1回:皆が語りすぎている時代に、なぜ語るのか
第2回:誰に、どのような問いを投げかけるか
第3回:音楽を語るための論理展開──感覚を構造に変える【前編】
第4回:音楽を語るための論理展開──感覚を構造に変える【後編】
第5回:フォーマットに応じて書く――媒体別の最適化・トーンの設計【前編】

媒体や記事の性質によってチューニングする

 さて、ここまで、文字量の違いによる書き分けについて論じてきました。けれど実際には、文章は単に長短だけで変わるわけではありません。媒体や記事の性質によっても大きく変化します。印象批評的に感触を強く押し出すのか、客観性や分析を重視するのか。専門用語を積極的に使うのか、あえて平易な言葉へ翻訳するのか。同じ作品について書いていても、文章の重心はかなり変わってくる。ここで注目したいのは、「文章は、“何を伝えるか”だけでなく、“どの距離感で読者と接続するか”によって変わる」ということです。ここでもまた、連載の中で述べてきた「個人的な感動をいかに他者との共有地として設定するか」という大きなテーマが前景化してきます。ここから、話がさらに重要な局面に入っていきます。注意を払いつつ、ついてきてください。

 たとえば、批評、レビュー、コラム、エッセイ、ガイド記事、ニュース、ライナーノーツ、SNS短評、あるいはYouTubeにラジオ、ポッドキャスト――これらはすべて「音楽について語る/書く」ことです。しかし、それぞれ求められている機能は微妙に異なっている。そこには、「何を語るか/書くか」だけでなく、「どのモードで語るか/書くか」というチューニングが存在しているからです。

 チューニングにおいて変わってくるのは、

・どの受け手へ向けるのか

・どの距離感で受け手と接続するのか

・どの解像度で語るのか

・受け手に何を持ち帰らせたいのか

といった点です。たとえばこの連載でも、わたしはところどころ「掲載誌は『rockin’on JAPAN』であるため、多少の論の飛躍を犠牲にしてでも、熱量が伝わる筆致を意識しました」「媒体は『ミュージック・マガジン』誌なので、情感に寄らずにあくまで情報伝達としてのテキストに」といったことを書いてきました。それがまさに、「どのモードで書くか」というチューニングです。

 分かりやすく伝えるためにあえて単純化すると、音楽についての語りや文章は、「何を分析対象にするか」と「どう記述するか」という二つのレイヤーから整理できます。そしてその内部に、いくつかの代表的なモードが存在しています。以下のどれが優れているかいうことではなく、実際の語りや文章は、これらをミックスしながら構成されています。鍵となるのは、「どのモードを強く出すか」という配合の問題です。

「どのモードを強く出すか」を考える四つの軸

 やや複雑になるので、箇条書きで整理してみましょう。

Ⅰ.何を分析対象にするか

 これはまず、何について分析するかという視線の置き方です。

➀制作・技術型

 これは、「その音楽が、どのように作られているのか」を重視するモードです。使用機材や録音手法、ミックス、空間処理、DAW環境、サンプリング、音圧設計など、音楽が生み出されるプロセスそのものへ視線を向けていく。ただし、これは単なる機材解説や技術談義ではありません。要となるのは、「なぜ、その音が選ばれているのか」という視点です。たとえば、ローファイな質感、過剰なオートチューン、極端な低音処理などには、その時代特有の美意識や身体感覚、意図的な作為が表れていることがある。「どう鳴っているか」だけでなく、「なぜ、その鳴り方になっているのか」を、制作実践のレベルから読み解くモードと言えるでしょう。

②社会・文化現象型

 これは、「なぜ、いまこの音楽が生まれ、受容されているのか」を、社会や文化構造の側面から読み解いていくモードです。ここでは、作品単体だけでなく、SNS、アルゴリズム、ファンダム、ジェンダー、ファッション、デザイン、都市感覚、消費行動、テクノロジー、コミュニティなど、より大きな時代背景やコミュニティ環境との接続が重視されます。「作品が何を表現しているか」だけでなく、「その表現がどういった空気の中で生まれたのか」「その表現が、なぜいま広く共鳴しているのか」を考えていくわけです。

Ⅱ.どう記述するか

 そのうえで、文章の記述モードがあります。こちらは、「何を書くか」よりも「どう伝えるか」の違いです。

➀印象・感覚型

 これは、「この作品を聴くと、どんな感触があるのか」を重視する書き方と言えるでしょう。空気感、比喩、色彩、身体感覚などを用いながら、読者の感性そのものを起動していく。たとえば、「雨上がりのアスファルトが青白い街灯を反射しているような湿度に包まれた音」「古いブラウン管の残光みたいなノイズ」といった表現は、論理的に説明するというより、まず感覚を共有しようとしています。ここでは客観性よりも、「受け手の内部へどんな感触を発生させるか」が重要になる。音楽を情報としてではなく、体験として伝えようとするモードです。

②論理・分析型

 これは、「なぜこの作品が重要なのか」を、歴史的位置づけや文脈整理、ジャンル分析、あるいは楽理的視点などから論じていくタイプです。単に「良い」「すごい」と言うのではなく、「なぜそう言えるのか」を、複数の論点を接続しながら説明していく。たとえば、「この作品は従来のロックのリズムを更新した」「この作品以後、こうした制作アプローチが可能になった」という形で、作品を歴史や文化の流れの中へ位置づけていく。ここでは、論理の説得力や、文脈との接続精度が信頼を形成します。楽理的視点であれば、コード進行、リズム構造、グルーヴ、和声、音響配置などを分析しながら、「なぜその音楽体験が成立しているのか」を説明していくこともできるでしょう。

 以上の、Ⅰ.何を分析対象にして Ⅱ.どう記述するかによって、ある種のストーリーが立ち上がっていきます。ここで大切なのは、「主観的な語りや文章は浅く、楽理的で客観的なものほど偉い」といった単純な序列はない、ということです。音楽評論や批評では、時に印象的・感覚的な書き方が軽く見られることがあります。しかし実際には、論理的な分析が読者の認識を更新することもあれば、たったひとつの比喩や感触の描写が、作品の聴こえ方そのものを変えてしまうこともある。「主観か客観か」「印象論か楽理論か」といった単純な二項対立では本質は見えてきません。その語りや文章が、受け手に新しい視界、新しい感覚を開けるかどうかが最も大切です。

 事実、長尺の論考になればなるほど、この四つの軸は複雑に混線していきます。制作技術から人物像が見えることもあれば、社会分析からアーティストの物語が見えることもある。感覚描写からジャンルの空気が見えることもあるし、論理分析が時代精神の読み解きにつながることもある。極端に言えば、技術論をエモーショナルに書くこともできますし、印象的な文章で構造分析することも可能です。むしろ、優れた評論や批評は、それらを横断してしまうことが多々あります。たとえば大谷能生という書き手は、著書の多くで、論理を書きながら感覚を立ち上げるという横断性を披露しています。

 つまり何が言いたいかというと、繰り返しになりますが、これらの型はあくまで便宜上分かりやすく類型化したものであり、実際に大事なのは「どのモードを強く出すか」という配合のバランスなのです。そしてその配合比率は、媒体によってかなり変わる。たとえばSNSでは、印象や感触を素早く立ち上げる文章が強い。一方、専門誌では、論理や歴史的位置づけが求められやすい。カルチャー誌では、感覚と分析が混ざり合ったハイブリッドな文体が機能することも多い。つまり、同じ作品論やアーティスト論でも、媒体によって「照射する側面」が変わるのです。

音楽メディア五誌、それぞれのカラー

 もう少し具体的に捉えていくために、2020年代半ば時点の、主要な音楽メディアをいくつか例に挙げてみましょう。すでに音楽メディアは、生き残りをかけた競争が非常に激しい時代に入っています。そのため、それぞれの媒体が、ここまで述べてきた四つのモードを独自の美意識のもとで組み合わせながら、自分たちなりのカラーを模索し続けています。つまり、媒体ごとに「音楽のどこに魅力を見い出すか」という軸がかなり異なっているわけです。雑誌媒体とWEB媒体のどちらも持っているメディアとして、まずは以下の代表的な五誌を例に考えてみましょう。本来であればこれだけで一冊の書籍が書けるくらい、日本の音楽評論/批評文化は豊かな土壌を持っているのですが、ひとまずここでは基本的な紹介にとどめつつ、ダイジェスト的にさらってみます。

 たとえば、rockin'onは、アーティストや作品の神話性/物語性を、強い熱量とともに伝えることに長けたメディアです。かつては編集部独自の語り口やエモーショナルな批評性が強い印象を持たれていましたが、現在は外部ライターの寄稿がほとんどで、しかも比較的長文の記事が中心になっています。そのため、今はむしろ、執筆者ごとの問題意識や個性が自由に表出しており、それらを楽しむ場所としての側面が強くなっているように感じます。かつてのrockin’on的な磁場を担っているのはむしろ、rockin’on JAPANの方が近いでしょう。

 ミュージック・マガジンは、網羅性とジャンル視点を持つメディアです。ロック、ジャズ、ヒップホップ、ワールド、電子音楽まで幅広く扱い、そのぶん、「この作品は歴史の中でどう位置づけられるのか」という「論理・分析型」の視点が重視される。年間ベストもジャンル別に選出されるなど、「音楽史」「ジャンル史」の感覚が強いメディアと言えるでしょう。単なる流行紹介ではなく、音楽文化のアーカイブとしての機能を持っています。

 Rolling Stone Japanは、総合音楽メディアとしてのバランス感覚が特徴的です。アイドルからロック、ヒップホップ、ジャズ、電子音楽まで幅広く扱いながら、時にかなりマニアックで深掘りされた記事も掲載されます。また、アメリカ本国版の記事翻訳が即時的に紹介されることで、グローバルなポップカルチャーの動向を日本語で追える点も大きい。社会性、物語性、音楽性を比較的バランスよく横断する媒体であり、そのため記述モードも多岐に渡っています。

 ele-kingは、思想・文化批評との接続が強いメディアです。単なる音楽レビューに留まらず、政治、哲学、現代思想、クラブカルチャー、実験音楽、インターネット文化などを横断しながら、「この音楽は、いまの社会や世界認識とどう接続されているのか」を思考する傾向にあります。特に電子音楽や前衛的作品に対して、単なるジャンル紹介ではなく、時代精神の変化として論じる強度があります。「論理・分析型」をベースにしながらも、感覚や思想の揺らぎまで掬い取ろうとする、批評色の強い媒体です。

 Sound & Recording Magazineは、「制作・技術型」を代表する専門誌と言えるでしょう。録音手法、ミックス、機材、DAW環境、プラグインなど、制作プロセスそのものへ深く切り込んでいく。ただ面白いのは、時に、単なる技術ノウハウに留まらず「なぜその音を選ぶのか」という美意識や人生観へと接続する瞬間があることです。結果として、制作技術の話から、アーティストの人格や思想が立ち上がってくることも少なくありません。このことからも分かる通り、一見すると入り口は「制作・技術型」を代表する専門誌のように見えても、その奥行きはもっと広い。これこそがまさに、先に述べた「モードのバランス配合」です。

 WEBメディアも、時代の流れの中で数は少なくなってきたものの、まだまだ多様な媒体があります。たとえばAVYSSは、前述のさまざまな型を横断しつつも、特に「印象・感覚型」を現行シーンやユースカルチャーに適した形へと更新した代表的な存在です。現場の空気感や美意識、コミュニティの感触を掬い上げる力が非常に強い。同時に興味深いのは、単なるレビューやインタビューだけでなく、アーティスト自身によるテキストや実作的な語りも重視している点です。つまり、「外部から説明する」のではなく、「いま立ち上がりつつある感性そのもの」を内部から記録しようとしています。既存ジャンルでは整理しきれない、新しい感覚の萌芽を捉えようとするメディアです。

 音楽にとどまらない社会・文化的背景を横断しながら論じるアプローチとして、NiEWも面白いメディアです。音楽単体というより、その背後にある価値観やライフスタイル、都市感覚、社会の変化まで含めてカルチャーを捉えようとしている。レビューやインタビューも、「いま、どんな感性が生まれつつあるのか」という問いへ接続されているケースが多い。ここにもまた、「社会・文化現象型」を軸としながら、さまざまなモードを吸収したうえで対象を捉えていこうとするスタンスが見えます。WEBの総合音楽メディアだと、Real Soundや音楽ナタリーも同様です。ニュース性や情報整理が強みでありながら、編集者やライター個人の視点が強く出た企画もあり、情報サイト然としたページの中に、そういった特定のモードの強い記事が突如として出没する面白さがあります。(こういった議論は、一般誌やライフスタイル誌、ファッション誌まで広げるとさらに興味深く話せるのですが、それはまた今後の連載で触れます。今回はひとまず音楽メディアに限って考えます)

“メディアで記事を書く”ということ

 ここでもうひとつ強調したいのは、そのような複数のモードを行き来しながらも、優れた書き手ほど、メディアそのものが持っている人格を無意識に受信し、自分の核を失わずに寄り添うことでシナジーを生み出しているという点です。それは雑誌やWebメディアに限りません。ZINEや同人誌、YouTube番組、ラジオやポッドキャスト番組といった音声メディアでも同様です。メディアで語ること/書くことは、どこかコラボレーションに近い行為だからです。

 媒体には、編集者、フォトグラファー、イラストレーター、ライターたちが積み重ねてきた固有の身体感覚や人格が宿っています。そこには単に「どんな記事が載っているか」だけではなく、どんな写真を使うか、どんな余白を取るか、どんな色を選ぶか、どんな見出しを立てるか、どこまで説明するか、どこで言葉を止めるか、どんなテンポで改行するかといった、編集全体を通した感覚の設計が存在している。しかも興味深いのは、それらが必ずしも編集会議で明文化されているわけではないということです。先ほど挙げた媒体ごとの傾向についても、編集者自身は「うちの媒体はそんなつもりではない」と感じるかもしれません。けれど実際には、媒体とは、編集者たちが意識的・無意識的に積み重ねてきた総体から読み取られるものです。過去記事をどのようにアーカイブするか。写真のトーンをどう統一するか。SNSではどんなテンションで投稿するのか。見出しは硬いのか、柔らかいのか。そうした細かな編集判断の蓄積を通して、媒体独自の空気が少しずつ形成されていく。そして寄稿者や執筆者は、その空気を無意識に感じ取りながら、「この場所では、どの温度の言葉が自然か」を察知しています。

 これはかなり興味深い現象で、ある意味では、“メディアで記事を書く”というのは、“媒体の空気とセッションしている”ことに近い。音楽で言えば、ジャムセッションのようなものかもしれません。誰も明確にルールを言語化しているわけではないけれど、この場ではどの音が気持ちいいのか、どこまで前に出るのか、どこで抜くのかを、参加者たちが空気で感じ取っている。そして、優れた書き手ほど、媒体に飲み込まれず、自分の核を残したまま、その場の空気へ自然に接続していきます。この感覚はとても大切です。完全に自分を変えてしまえば、単なる媒体のコピーになってしまう。一方、自分だけを押し通せば、その場から浮いてしまう。だから実際には、「媒体ごとに人格を変える」というより、「媒体ごとに、自分のどの側面を前に出すかを調整している」と言った方が近いでしょう。あるいは、普段は媒体へ自然に馴染みながらも、ここぞという瞬間だけ、自分の個性を強く打ち出すという方法もある。その“出入り”の感覚まで含めて、書き手の力量なのだと思います。そしておそらく、読者もまた、その媒体の人格を無意識に読んでいます。人は単に記事を読んでいるのではなく、「その媒体で読む」という体験ごと受け取っている。だからこそ、同じテーマを扱っていても、媒体によって読後感が大きく変わるのでしょう。音楽制作も同様で、同じ楽曲でもクラブなら低音を強くするし、スマホ再生を想定するなら中域の抜けを調整するでしょう。それによって、印象がガラッと変わる。文章もそうで、媒体ごとにチューニングは変わるけれど、その奥にある問題意識や感覚の核は変わりません。

 これは、筆者自身が実際にさまざまな媒体へ寄稿するようになって、初めて実感として理解したことでもあります。もちろん、「媒体ごとに求められるものが違う」という意識自体は、最初からある程度持っていました。けれど、書き続けていくうちに、もっと深いレベルで、自分の文章そのものが微妙に変化することに気づいたのです。どこか頭の片隅に、掲載メディアのデザインやレイアウト、そこから滲む思想がイメージされているからでしょう。それによって、たとえば論の入り口が変わる。どこまで説明するかが変わる。ある言葉を選ぶのか、別の言葉へ置き換えるのかが変わる。比喩の温度が変わる。改行のタイミングが変わる。さらには、読点をどこへ打つかといった、ごく微細な呼吸のリズムまで変わっていく。まるで、自分の内部に存在していた複数の感覚のうち、「この場所では、どの感覚が自然に響くのか」が、無意識に選ばれていくような体験でした。そして次第に、それは単なる“媒体への適応”ではないことにも気づいていきました。むしろ、自分ひとりだけでは辿り着けなかった言葉や視点へ、媒体との接触を通して導かれている感じに近かったのです。つまり、媒体とは、書き手の個性を削る場所ではなく、その人の別の側面を引き出す場所でもある。だからこそ、こうした語ること/書くことの変化は、単に「媒体に合わせている」という話ではありません。異なる媒体と接続することで、自分自身の内部にある複数の言語や感覚が引き出されていくことに近い。語る/書く場所が変わることで、見える景色が変わり、触れられる感情まで変わっていく。その体験自体が、語ること/書くことの大きな面白さなのだと思うようになりました。

 こうして、媒体ごとの空気や重心について考えていくと、さらに別の問いも見えてきます。実際には、書き手は媒体ごとに言葉を調整しているだけではありません。アーティストや作品そのものによっても、自然と選ぶ言葉や比喩、文章の温度を変えているはずです。たとえば、同じ「孤独」を扱った作品でも、ある音楽には「青白い湿度」や「ノイズ混じりの夜」といった言葉が自然に響く一方、別の作品には、もっと乾いた言葉や、身体的で土臭い表現の方がしっくりくることもある。つまり、書き手は単に好きな言葉を選んでいるわけではない。その作品やジャンル、その背後にあるコミュニティや時代感覚に応じて、「どんな言葉なら、その感触を最も正確に共有できるのか」を探っているわけです。

 そして、その感覚を掴むためには、単に文章技術を磨くだけでは足りません。そもそも、その音楽がどこから生まれ、どんな歴史やジャンルの流れの中にあり、どんなコミュニティの空気を背負っているのかを知る必要がある。つまり音楽について書くには、当たり前ですが、感覚だけでなく知識も必要です。では、大量に存在する音楽ジャンルや歴史を、どのように学んでいけばいいのでしょうか。そもそもジャンルとは何なのか。そして、ジャンルレスと言われる現代において、なおジャンルを知る意味はどこにあるのでしょうか。次は、そうした「感覚と知識の獲得」について考えていきたいと思います。

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