“過集中する天才”像は言語化ブームへの逆張り? 綿野恵太が見る変化の背景
坂本慎太郎が新作アルバム『ヤッホー』のインタビューで「若い頃は、頭がおかしくてヤバい人が一番ヤバくて変な音楽を作れると思ってたんです。今はもう……頭がおかしい人は、ただおかしいだけ。そんな感じがしません?」と語ったことが一部で共感を集めている。
たしかに、そこで言われているように、「社会から逸脱した人がすごい芸術を作れる」というタイプの天才像はかつてのものである気がする。このインタビューではそこから、現代ではフェイクニュースやデマがあふれることで「(社会の)基盤になっていたものが崩壊してしまった」こと、言い換えれば「現実のほうが芸術よりヤバい」ことのほうに焦点が当てられているが、この話題は“天才像の変化”という観点からも興味深い。
いまの時代の寵児は、大谷翔平や藤井聡太のような「ひたすら一つのことに打ち込んで凄まじい努力を重ねる」タイプだ。当然、彼らは社会から逸脱していない。この変化はなにを意味しているのだろうか?
『「逆張り」の研究』(筑摩書房)などの著作で知られる文筆家の綿野恵太に聞いた。
「かつてはやばい天才というイメージが強かった。コツコツと努力する秀才ではなく、破天荒でアウトロー的な天才。トラウマや狂気に苦しんだすえ、ドラッグやアルコールに溺れたり、犯罪や自殺を犯してしまう。そんな孤高の天才がフィクションにたくさん出てきた。『天才は狂気と紙一重』というイメージです。
しかし、最近はそうした天才像は薄れてきた。精神科医の斎藤環さんも、『天才のダークサイドに人々が興味を失っている』と指摘しています」
綿野が言及した斎藤環のインタビュー記事では、大谷翔平や藤井聡太、井上尚弥らの名前をあげながら、「ほぼダークサイドがうかがえず、人柄も素直で屈託がなく、卓越したセンスや実力で成功を収めていること。さらに、一心不乱に特定の分野に没頭し、それが好きでたまらないこと」といった共通の特徴が挙げられている。
斎藤は、このように天才像が変化した背景として、かつての「自分探し」的な心理主義から「愛されキャラ」を目指す承認欲求の時代への変化を見ている。「現代においては一途に強い欲望を持つことが『愛されキャラ』の重要な条件になっていて、天才もキャラクターとして捉える今の価値観に合致していると思います」と彼は語っている。
では、綿野は変化の背景をどのように見ているのだろうか。
「いま、SNSで流れてくる自己啓発系の動画でも、『自分の身体が無意識のうちに動き、作業にのめり込んでしまう領域を探してそこで勝負しろ』というタイプのものが目立ちます。アテンション・エコノミーで私たちの注意は散漫となり、いくつかの作業を同時並行するマルチタスクの時代、一つの作業に没頭できることへの憧れは強まっている。
ただ、気になるのは、『一心不乱に好きなことを努力すること』それ自体が、どうも天賦の才能とみなされている点です」
どういうことだろうか。
「ひろゆきさんが『努力できるのは努力できる才能があるからだ』とよく言うのが、象徴的です。つまり、一心不乱に努力できる人はすでに天才なのだ、と。
また、フィクションにおいても、コミュニケーションには難があるが、特定の分野に深い知識とこだわりを持ち、人並外れた集中力を発揮するASD(自閉症スペクトラム)的なキャラクターが、天才として描かれるケースも増えている。
有名人でいえば、イーロン・マスクもアスペルガー症候群であることを明かしていますが、それも必ずしもマイナスだと捉えられておらず、異常なまでに仕事に集中するエネルギーを裏付ける話として解釈されている。
『努力できること自体が生まれ持った才能』という考えが広まった背景には、コツコツ努力しても報われないと感じさせる社会状況があると見ています。くわえて、あらゆる仕事でコミュニケーション能力が求められていることも無関係ではありません。
一般社会では、コミュニケーション能力が高く、マルチタスクをこなせる人ほど稼ぎやすい傾向が、むしろ強まっている。『言語化』を掲げた本が売れているのも、そうした社会の要請に対応しているのでしょう。
しかし、コミュニケーション社会についていけない人も多い。だからこそ、過集中する天才というイメージは、そうしたコミュニケーション社会の序列を一発で覆す、ロマンチックな対象として映るのではないかと思います」
綿野の著書の言葉を借りれば、過集中する天才像は言語化ブームへの「逆張り」である(あるいは注目された順序を考えれば言語化ブームは過集中する天才像への「逆張り」である)、と言えるのかもしれない。